kukuti and hatiya












「怪我をしている」

 声は真上から降ってきた。驚いてクナイを握る手に力を込めるが、逆にその行為が傷口から沁みる痛みを増やしただけであった。
 うっと小さく虫の鳴き声のように唸ると、自分と同じ色の衣をまとった少年が舞い降りてきた。音のない着地は、さながらプロの忍者のように思えた。纏う空気も面持ちも降ってきた彼はどこか大人びていて、自分と同じ3年生とは思えない。
 頭巾の覆う顔には見覚えがあった。確かろ組の図書委員のやつだ。
 廊下ですれ違うことや今日のような合同演習で顔を合わせることはあっても、言葉を交わすことなど一言二言あれば珍しい――つまり顔見知りではない。クラス対抗の演習中である今では立派な敵方だ。
 そんな彼は、すでに立ち上がることすらままならない程の傷を負った己の姿を前にすると、何を思っているのか屈みこんで顎に手を当てると「ふむ」と小さく呟いた。
 とどめでもさすつもりだろうか。己の腰から垂れている色とは違った鉢巻を奪い取り棄権に追いやってきたろ組の仇討をされてしまうかもしれない。
 逃げることすらままならない俺から、彼がこの演習で合格するのに必要であろうい組の鉢巻を奪うことなど容易いだろうに。あちらの思考が分からないままジッと様子をうかがっていると、黙り込んだ彼は徐に懐に手を入れた。クナイを取り出して此方の喉元に突きつけ脅すつもりなのだろうか――反撃をする気力もなく痛みに促されるままに嘆息を零し目を細めた。しかし、彼は此方の思考を裏切り懐から包帯を取り出して此方の怪我を手早く止血してぎゅっと締めあげた。

「応急処置だから、早めに本部に戻った方がいいと思うけど」

 真っ白な包帯がぐるぐると巻きつけられた傷を放心気味に眺めていると、立ち上がった彼が此方を見下ろしながらそう言って笑った。

「もう無茶をしてはいけないよ」

 にやりと笑う彼はどこか不気味さを漂わせてそのまま森の一部に溶けてゆきそうだった。あわてて下がっている腕の手首を握り「なんで?」と声をかけた。
 主語も述語もない言葉だったのに、引きとめられた彼は俺の真意を理解したようで

「それは私がもう既に課題を終わらせているから。納得いかない?うーん、そうだね。もっともらしくこの行為に理由をつけるなら」

 懐から教師に言い渡された今回の課題である敵組の色―つまり自分の所持している色と同じ鉢巻を懐からわんさか覗かせて彼は緩やかな微笑を抱えたままゆっくりと膝を折り木の幹に背を預け肩で息をしている自分を真正面から覗き込み、深く笑んだ。

「面白そうなにおいがしたからかな」

 底の見えない意地悪そうな笑みだった。そうして、まるで此方の心中を察したかのように目の前の少年は押し殺した笑い声を噤んだ唇の合間から零しながらゆっくりと立ち上がった。
 気づかぬ内に彼の手首を離していたことに自身の行動ながら驚き瞬きを繰り返していると、立ち上がった彼がその顔に笑みを浮かべたままひらりひらりと手を振った。

「じゃあね久々知くん」

 あ、と声を零した時には既に彼は姿を消していた。
 思わず伸ばした手がむなしく虚空に浮いて、礼を述べることが出来なかった口は間抜けにもぽかんと開いたままだった。



***



「…それは僕じゃないなよ」

 そう言って不破雷蔵は軽やかな笑みを転がしてうどんをすすった。

「ふふ騙されたね久々知は」

 うどんの麺を箸で掬いながら隣に座る不破は先日顔を合わせた時に見せた笑みとはまた違った種類の笑顔を浮かべて面白そうに喋っている。

「君を助けたのは『鉢屋三郎』だよ、僕じゃない」
「はちやさぶろう」
「話は知っているだろう。僕の顔を借りている変装の名人さ。僕と彼でろ組名物らしいから」

 不破は笑いながらそう言った。
 確かに鉢屋の話は知っている。しかし、今の今まで思考の中からすっかりと忘れ去っていた。何と言っても俺は一度も彼と顔を合わせたことがないので、同じ顔ならば無条件で言葉を交わしたことのある目の前の不破の方が先に名前が出てくるのだ。
 鉢屋三郎。上級生顔負けの忍術、誰も素顔を見たことのない変装の名人。
 言われてみれば、先日出会った彼と目の前に居る彼では雰囲気が違いすぎた。不破は穏やかで柔らかな印象を受けるが、先日助けてくれた彼は笑みの裏に鋭い針千本でも隠しているようなどこか犀利な空気をまとっていた。
 食事を終えた不破が「だからお礼だったら三郎に言ってね」と苦笑にも似た笑みで言葉を放ちゆっくりと盆を持って立ち上がった。
 彼が此方に背を向けて行ってしまう手前、ちらりと垣間見た彼の横顔。それを目にとめた瞬間、刹那走った違和感。気づけば俺は先日と同じように目の前にあった手首を思わずがっちりと掴んでまた同じように彼を引き止めた。

「鉢屋三郎?」

 口走った言葉に、目の前の少年がわずかに震えたように思えた(気のせいかもしれないが)。
 くるりと振り返った何者かも分からなくなった少年の双眸がまっすぐに俺を射抜く。数秒互いの視線が沈黙のまま絡み合い喧噪で溢れているはずの食堂が俺たちの間だけ静寂に染まったかのように鎮まり、俺は蛇に睨まれたネズミのような心地でその数秒を耐え抜いた。

「…だろ?お前不破じゃない」

 彼の無言の言葉に確信を得て先ほどよりも強い口調ではっきりと言いきれば目の前にあった無表情がにやりと歪み、声なき声が「正解」と囁いた。
 彼の面に浮いている笑みは先日の演習で俺を助けてくれた男が浮かべていた笑みそのものだった。

「なぁ、なんで私が不破雷蔵ではないと知れたんだい?」

 鉢屋は興味深そうに片眉だけを吊り上げて口を弧に描きつつ先ほどまで座っていた俺の隣へ再度腰をおろした。
 彼の口がにんまりと歪んだのを見ながら目の前の湯豆腐を箸の先で突っつく。柔らかな弾力のため軽くつついた箸先は豆腐の真っ白な表面を突き破ることなくぷるりと震えただけで終わった。
 そんな豆腐の整えられた美を崩すことに罪悪感を抱きながら箸で食べやすい大きさへと崩し、脳の中に収められている豆腐の味を想起させて思わず涎を出しながら箸でつまんだ豆腐をひょいと口の中に放り込んだ。
 うまい。
 豆腐を吟味していると、どうにも隣からの視線が痛い。口の中の豆腐を飲み込んで「勘だ」と返事をすれば、鉢屋は呆気にとられたような信じられないものを見るかのような面持ちで「勘かよ」と呆れ混じりの声音で呟いた。
 どうやら彼の変装を俺がどんな凄技で見破ったのかと密に期待でもしていたのだろう。明らかに落胆した様子の鉢屋に少しながら気が引けた。
 
「ふーん、君は噂に違わぬ秀才君みたいだな」

 机の上に片肘をついて頬に手を置きながら此方を眺める面には好奇と驚喜の色が入り混じって揺れている。
 そこに己の姿を見つけて彼は自分を見つめているのだと改めて認識し、どこか落ち着かない気持ちにさせられ、そう言えばきちんと彼が鉢屋三郎だと認識して先日の礼を述べていない事実に気づく。今更ながらそれを告げようと口を開くがそこから言葉が漏れることはなく、鉢屋がとても愉快そうな顔をして開きかけた此方の唇に人差し指を宛がい、ニンマリとしたあの人の悪そうな笑みを浮かべて「礼はいらない」と囁き、そっと顔を近づけたかと思うと、耳元で小さく小さく

「次は騙しきってやるぞ」

 と、言の葉で鼓膜を舐めるような囁きを零してそそくさと立ち去ってしまった。
 






photo(ttp://www.geocities.jp/borderline_sy/)

090405