漠然と立ち尽くしていた己の背後に、もう慣れ尽くした人物の気配が現れる。振り返れば、厭味ったらしい面持ちの彼が天井から舞い降りて黒く艶やかな長髪を揺らしている。
 そんな彼を視界の端に置きながら目の前の廊下に淡々と延びる黒くどろりとした『穢れ』を見やる。昨日まではこの場所にはなかったそれは、意図的にばら撒かれたものだ。
 ――犯人はもちろん彼、だ。

「どうするんですか、これ」
「うむ、鉢屋に任せる」

 と、犯人である立花仙蔵は無責任にそう言い放った。
 いつも彼には何かと振り回されっぱなしで、いい加減この状況から脱却したいと常々思っているのだがそれが叶う日は、六年が卒業する日まで来ないのではないだろうかと最近諦めが心を占めてきた矢先にこれだ。

「大体、こんなもんどうやってばら撒いて…」

 穢れと言っても通常それは知覚できない。自分のようにそう言った体質ならば話は別だが、先輩は変わりものではあっても、そっちの力など欠片も持ちえていないはずである。
 そんな彼はいったいどのようにして、このようなただただ自分をおちょくる為だけに穢れをまき散らしたのか疑問なところである。そう、呆れて改めて振り返り先輩へ向き合い、ハッと息を呑む。
 立花仙蔵の姿を瞳孔の中央で捉え、ジリジリと目の乾く感覚、いくら瞬きをしようと拭えない乾燥感。
 彼の効き腕に粘りつく様に絡みつくヘドロのようなものは廊下の上に散らばる“それ”と同じ『穢れ』だった。
 
「…手、やばいことになってますよ」

 床の上に散らばっているものの濃度を濃くさせたそれが彼の腕に絡みついて、見ていて気分のいいものではない。自然と顔がしかめっ面になる。
 だが、立花仙蔵は大した苦もなさそうに効き腕をぶらぶらと揺らし普段と変わらぬ調子で「なに曰くつきのフィギュアの生首を転がしてみただけだ」と愉快そうに笑いながら言ってのけた。
 私には目の前の一つ年上の男がいったい何を考えているのかわからない。人を観察することが得意な自分にとって、何を考えているのかわからないということは、つまりその相手に変装することが出来ないということと同意義だ。

「……まったく」

 ゆらりと近づいて、先輩の前に立つ。彼は楽しげな様子のまま此方を見ている。なんとなく、その顔が余裕に満ちていて腹がたった。

「一体、こんなことをしてなんになるって言うんですか」

 そう言って、ぶらりと下げられた先輩の腕を左手で掴みぎゅっと握りしめる。慈しむような優しげな仕草ではなく、ただただ力任せに握り締めるだけだ。
 黒く、弾力のあるそれが私の掌と先輩の腕の間に挟まれてぐにゅりと潰される感触が、嫌に生々しく気持ちが悪かった。
 此方からの接触というそんな私の行動が意外だったようで、驚いたように目を見開いて目の前の男が此方を見返すが、それを無視して手先のそれに意識を集中させる。
 ゾワゾワと肌を這う感触と共に、黒く淀んだヘドロのような『穢れ』が此方の身体に乗り移る。立花仙蔵にとりついていたそれが全てを回収し終えたのを、体に圧し掛かる重圧で感じ取り、詰めていた息を吐いて彼の腕から手を離そうとした。だが――

「貴様が私の認識を改めるだろう」

 妖艶に笑んだままの彼が、離した腕を今度は掴んできた。

「これは私が鉢屋三郎の気を引きたいがためにやったこと。誰に呪いが降りかかるやもわからぬのにな」
「……本気ですか?」

 そう言った先輩は酷く愉快そうであった。そして彼の言葉が嘘偽りではないことを、彼からにじみ出る雰囲気が言葉なく物語っている。
 つまりは、目の前の男はある程度この『穢れ』の本質を理解しながら、それでもなおこのような馬鹿げたことをやってのけたということになる。

「立花先輩はそもそも『アレ』は見えませんよね。よくこんな芸当できましたね」

 先輩の腕を振り払うか否か考えながら紡いだ言葉がすらりと舌の上から滑りだされ外の世界に飛び出していった。
 私の手首を掴んだまま離す素振りすら無い先輩はやはり楽しそうに笑い顔でにこやかにしている。

「ふふ、私もそれなりに勉強したのだよ」
「勉強?」
「そうだ。五年前に貴様が私に“呪い”を仄めかしたあの日以来―な」

 頭の中に想起されるのは彼の口から紡がれた過去。立花仙蔵と鉢屋三郎が初めて言葉を交わした日のこと。私にとって、日常のひとかけにも満たない出来事だったけれど、先輩にとっては違っていた。
 それを改めて思い知らされたように思う。
 ぎちり、と腕を握られた掌に力が込められる。肌に食い込む圧力、下手をすれば爪先に皮膚を破られてしまうのではないかと思うほどであった。
 痛みに思わず顔を顰め、先輩を睨みつけようと顔を上げれば交わる視線と視線。笑みが鎮められ、思いのほか真剣な双眸に射抜かれ、私は息を喉に詰まらせる。

「――っは、冗談」

 漸く、そんな陳腐な言葉を吐き出すと、先輩がずいっと顔を近づけて間近から私の顔を覗き込んだではないか。
 突然狭まった距離間に、困惑する間もなく驚きに目を見開いた自分に彼は酷く落ち着いた声音で淡々と言葉を述べる。

「鉢屋には、私が冗談を言っているように見えるか?」

 偽りの顔を覗き込み、立花仙蔵は問いかける。
 答えは否、彼は嘘も冗談も言っていない。これでもし彼が私をおちょくってからかっているだけなのだとしたら、立花仙蔵はとてつもなく演技のうまい優秀な忍だということだ。
 けれど私は何も答えない。言葉なく、ただ沈黙を返し鼻先にある漆黒の瞳に吸い込まれるような錯覚に蝕まれながら先輩の動向を探るように待つ。

「言っただろう、私は貴様の気が引きたくてしょうがないのだと」

 吐息が肌を撫でるような距離で先輩は艶やかに笑み、私の頬をもう片方の手先でそっと滑らせるように撫でる。その感覚に背筋を鳥肌がなぞり上げて行く。
 私の反応が気に入ったのか、立花仙蔵は更に調子に乗って手首を掴んでいた手をそっと持ち上げると、恭しくその手の甲に口づけを落として美麗な微笑を浮かべてる。
 そんな彼の仕草に、私は顔を顰めて反抗することも無く、どうすればいいのか何も分からぬ子供のような心情で、目の前で落とされた彼の接吻を甘んじて受け入れてしまっていた。







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090621