昼御飯の弁当を食べ終ったあとのことだ。ちょっとトイレに席を立ったところ、廊下に出た途端出会いがしらに嫌な顔と鉢合わせしてしまった。
 自分の運のなさに衝撃を受けながら「げ」と思わず呟くと、どうやら相手にも聞こえていたようで、彼は澄ました顔のまま靴底でコツコツと音を刻んで此方へと歩み寄ってくる。

「そんな嫌そうな顔をしても見逃さないからな、鉢屋こっちに来なさい」

 そう言って教師にしては若く、女子生徒に人気のある眼鏡をかけた優男は私を先導するように歩きだした。


 * * *


「前にボタンを締めろと言っただろ」

 資料室として使用されている空き教室に通されて、紙の古ぼけた独特のにおいに鼻を刺激されていると、後ろから入って来た久々知先生の言葉がコツンと私の頭にぶつかった。
 くるりと振り返れば、ちょうど先生がドアを閉めているところである。彼の横顔を眺めながら「そうでしたっけ?」と肩を竦めると、先生から「茶化すな」と厳しいお言葉を頂戴する。

「縫う暇が無いんですよ。それに私不器用だし」

 目線を先生から外して他所を眺めながらぼやく私に先生は一歩二歩と近づいてくる。
 ちょうど手を伸ばせば届くぐらいの間合いになると、先生は足を止めてそこに佇みじっと此方を見てきた。

「お前の家庭科の成績は5のはずだ」
「…なんで知ってるんです。キモイですよ久々知先生」

 彼の目線に気まずさを感じ軽口と共に不審の籠った目で久々知先生を見上げるが、彼は大して気にする様子もなく平然としてそこに居る。

「気にかけている生徒の成績を把握して居ることの、どこが気持ち悪いんだ鉢屋」
「私、久々知先生に目を付けられる程、悪さしてませんよね」

 不審が募る私に対して、久々知先生は落ち着いた様子で一歩二歩と更に此方へと歩み寄って来た。
 当然、そんなに距離があったわけでもない私たち二人の間にあった空間は詰められて、見上げなければ先生と目が合わない程の距離となる。
 近過ぎる――そう思ったが、ここで引いてしまえば負けを認めたような気分になる。と、ついつい自分の癖でもある負けん気がこんなところで発揮されてしまった。

「先生は別に鉢屋を素行の悪さで目を付けているんじゃない」
「――と、言いますと?」
「わからないのか?」

 澄ました表情を浮かべる久々知先生が僅かに目を見開いて、首をかしげて見せる。
 そんな顔されたって自分は女子ではないので黄色い声など上げはしないが、少々ドキリとさせられてしまう。同姓だというのに。
 そんな私の方に久々知先生の手が伸びてきた。
 私はその手の行方をゆっくりと追いかける。

「…せ、先生?」

 久々知先生の手はボタンが無く、肌蹴て露わになっている私の喉元へと触れた。先生の私の体温よりも低い指先がつぅっと首筋を撫でて滑り置いて行く。
 その感触にぞわりと、鳥肌が立つのを感じながらも私は動けずにいた。

「鉢屋、先生は鉢屋のことが――」

 徐々に先生の顔が近づいてくるが、蛇に睨まれた蛙の様な状態で私にはどうすることもできない。
 そんな時だ。教室に備え付けられているスピーカーから昼休み終了の五分前を告げる予鈴が鳴り響いた。
 私はハッと我に返り、先生から慌てて立ち退き肌蹴た襟もとをきゅっと握り「昼休みが終わるのでこれで失礼しますっ!」と叫び一目散に教室から飛び出た。
 廊下を駆けながらバクバクと鳴り響く心臓の音を聞き、先ほどまでの出来事を思い返す。
 目と鼻の先にあった、女子に人気の新人教師の顔。
 教壇に立つ姿を眺めているだけでは気付かなかった肌の白さや睫毛の長さ――思い起こせば恥ずかしくなるばかりで、思わず「あーっ」と叫んで廊下のど真ん中でへたり込んだ。
 廊下を行きかう生徒の興味深々な視線が背に突き刺さるが、それでも私はうるさい心臓の音を聞きながら立ち直ることが出来ず、結局午後の授業はさぼることとなったのであった。