空が暗雲に隠され、夜の光源である月や星が顔を覗かせる隙間さえ無いような日の深夜のことである。
 大地と空と木々の境が分からぬほどの暗闇の中で、手負いの獣が己の身を守るように木の幹に空いた穴の中で身を丸めて荒い息を繰り返していた。

「……」

 茂る木々の葉がザワザワと揺れ、どこからともなくホウホウと梟の鳴く声が風に流されて闇夜の静寂を裂いてゆく。
 手負いの獣は、己の身から流れ出て行く血液に力を奪われ、ぼやけだした視界に小さく舌打ちを零した。

「クソ…っ」

 悪態をつくも、直ぐに彼は辺りの空気が一変したことに気づきハッと息を呑む。
 手から滑り落ちそうになっていたクナイを握り直し、己に止めを刺しに来たであろう敵に最後の足掻きを、と彼は揺れ動く闇を睨みつけた。

「怪我をしたのか。間抜けめ」

 だが、彼の警戒を他所に闇夜の奥から聞こえてきた声音は殺気など微塵も見せず、それどころか逆に呆れを含んだ軽快な口調であった。
 その声が彼の良く知る者のものだったので、青年は力の入らぬ手に無理をさせて握りしめていたクナイを握る手のひらから力を抜いて肩を下ろす。その拍子にカラリと乾いた音を立てて、彼の最後の防衛線であった小さなクナイがその手から離れ地面の上に転がり落ちた。
 ふと、その様子を眺める人影が闇夜からうっすらと浮かび上がってくる。
 林の奥から現れた青年は、落ち付いた様子で樹木の懐に潜んでいる友人の元へと歩み寄り、その傷の具合と出血の多さに顔をしかめた。

「深いな……いけるか?」

 暗がりの中、神妙な面持ちで尋ねる声音の主に、木の幹に身体を預けた手負いの友人は肩で息をしながら静かに首を横に振る。

「こんな状態じゃ、お前の足手まといになる――」

 傷が痛むのだろう、額に脂汗を浮かべていた青年が閉じかけていた瞼を持ち上げて、どこか焦点のずれた視線で静かに己を見下ろす友人の姿を見上げ口を開く。

「お前、ひとりなら、無事に密書を持って帰れる」

 そこまで言葉にして、手負いの青年は身体をくの字にさせてせき込んだ。喉を掠るような音とともに吐き出される赤い液体が、夜の闇に侵された世界に艶やかに浮かび上がる。
 友人の青年は、慌てることもなく、駆け寄ることもなく、心配をするわけでもなく、ただジッとその様子を見下ろしていた。
 その様子はまるで、彼が言おうとしている言葉の最後を待ち構えるかのように。

「俺を置いてゆけ」

 呼吸を整えて、ヒュウヒュウと掠れた呼気と共に吐き出された言葉は、冬場の雨のように身を刺すような冷たさを帯びていた。それは青年の覚悟。目に見えて重症な傷を負った状態で、敵の居る場に一人残されるということは、遠巻きに死を意味していた。
 それをくみ取った友人である青年は、しばし無言で意識の朦朧としかけた死にかけの彼を見つめて、不意にふっと綻ぶような笑みを浮かべ「竹谷八左ヱ門」と、普段は呼ばぬ彼の名を通して呼んでみせた。

「問おう。お前は鉢屋三郎が怪我を負った足手まといになる味方を捨て忍務を遂行する忍だと思っているか?」

 いつの間にしゃがみ込んだのか、鉢屋は座り込んでいる竹谷と同じ目線でいかにも楽しんでいます、とその表情で語りながら、まるでなぞなぞを出題するかのように愉快そうにつらつらと言の葉を並べてみせた。
 
「ああ。三郎は忍務を全うする忍者であると俺は知ってる」
「成程」

 そんな鉢屋に竹谷は迷うことなく、返事を返す。
 その揺るぎのなさにか、それとも返答の内容にか、鉢屋は可笑しそうに口を吊り上げて二ッカリと笑う。

「なら、鉢屋三郎はあえてお前を見捨てない」

 鉢屋の返事が意外だったのか、蒼白な面持ちの竹谷が驚愕の顔を浮かべてみせる。

「なにを、考えている三郎…」
「残念だったなハチ。私は人の期待を裏切ることが大好きなんだよ」

 困惑顔の竹谷だが、それに構わず鉢屋はゆったりとそんな彼に手を伸ばす。その手が竹谷の体を掴もうとしていることに本人が気が付き、彼は咄嗟に鉢屋の手を振り払った。
 弾かれた手先が赤くなるのを眼の端で捉えながら、さして驚いた様子でも無い鉢屋が己の手を振り払った友人へと視線を向けると、竹谷は酷く憤怒している様子で荒々しい息を吐き出していた。

「ふざけるなッ、俺を連れていけば足手まといになるだけだろうが!それが分からん奴ではないだろ!?」
「しかし私はもう決めた。お前は連れて帰る」
「忍務を遂行しろ三郎っ」
「もちろん、忍務はこなすさ」
「っなら邪魔な俺は置いてゆけ!」

 飄々とする鉢屋に対し、竹谷は傷口が開かんばかりの勢いで鉢屋に対してくってかかるが、鉢屋はそれを気にする風でもなく、己の信を貫くがごとく一歩も譲らない姿勢のたたずまいであった。

「お前は私を馬鹿にしているのか?…第一、お前を置いていこうといかまいと、私に掛かる手間は同じようなものだ」
「…どういうことだ」

 わずかに目線を竹谷から外し、ふぅっと呆れたように息を吐く鉢屋の様子に竹谷が怪訝そうな顔をする。そんな彼に気づいて、鉢屋はずれた視線を元の通りに戻すと肩を竦めて「分からないのならそれでいいさ。ともかくお前は連れ帰る」と言い放つ。
 ニヤリと笑む鉢屋の顔を見て竹谷はぐぅっと言葉を飲み込み黙った。そうした顔つきの時の彼に何を言っても意味がないことを彼は知っていた。しかし、今日の竹谷は引けなかった。それは、恐らく自分の命だけでなく友人である鉢屋三郎の命がかかっていたらであろう。
 竹谷が危惧していたのは、他でもない鉢屋の命だ。負傷した己を庇うことで、一人ならばうまく立ち回れる彼の危険性が増すことを竹谷は理解していた。
 そして、竹谷は後悔していた。先ほどの謎かけのような問いかけへの返答を間違えたことを。そのせいで友が窮地に立つことを選択してしまったことを。
 だから、彼は鉢屋をひとりで行かせるために最も愚かしい選択肢を選んでしまった。

「俺は……お前の足手まといになるぐらいなら―――」

 俯き、低く言葉を濁らせた竹谷は、先ほど落としたクナイを拾い、苦しげな呼吸を下す喉元にその切っ先を突き立てようと腕を振り上げた。
 しかし、竹谷の不審な動きを素早く察知した鉢屋はクナイの切っ先が竹谷の喉元に突き刺さる手前で、竹谷の手首を捻りあげた。そこにけが人に対する配慮など微塵も感じられず、鉢屋の顔は盛大に顰められて竹谷を見下ろしている。

「馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿とは…」

 呆れを隠さずに鉢屋はそうぼやいて、竹谷の手を締め上げる。すると、元より力の残っていない彼はその強い力に耐えきれずポロリと掌からクナイを落としてしまった。

「いいか?これは忍たまの演習だ。演習如きに命をかけるな」

 と、彼はひどく忍者らしからぬことを正論のように吐き捨てて、自害しようとした竹谷を諭すように言う。
 むろん、竹谷は酷く友人の言葉に驚かされてぽかんっと大口を開き、まじまじと目の前の相手を見つめ返し、暫くしてからボソリと「お前、今、何を言ったか…わかってんのか?」と恐る恐る尋ねた。

「演習で帰らぬ者となった奴らは少なくないが、私から言わせてみれば、そいつらは阿呆だ」

 きっぱりと、どこから自信が出てくるのかと問いたい程に迷いなくそう言い放った鉢屋に、竹谷は今度こそ絶句した。

「私達はまだ忍術学園の生徒だ。たとえ忍務を失敗したとしても、教師、友人、学内からの評価が下がり成績が落ちるだけだ」
「忍者が、忍務を遂行するのは、当然じゃないか…命をかけるのだって、忍びだからしょうがない」
「阿呆」

 傷が痛むのか、痛々しそうな雰囲気のまま竹谷が鉢屋のあまりの言いように反旗を翻すが、バッサリと一言で切り捨てられる。

「例え忍務で失敗しようと学園関係者は生徒の命までは取らない。まだ囲いの中で暮らす分際で命を張るなんぞ生意気な限りだ」

 鉢屋三郎はまるで言霊使いかのようで、彼の発言にはどこか力が潜んでいた。まるで、彼の言うことはすべて正論で、その導きに従うのが正しいのだと思わせた。
 竹谷はそれが詭弁じみていることに気が付いていたが、その裏に潜む友の意図を薄々勘付いて反論する言葉を失ってしまっていた。

「忍術学園の生徒なんだ、忍務失敗のごたごたなど教師に任せておけばいい」

 そう言って一層笑みを深めた鉢屋に竹谷は返す言葉もなく、無言でその顔に見惚れる様にただただ彼を見ていた。
 鉢屋はそんな彼の視線を物ともせず、不意に茂みの奥へと視線を向けて「いい加減やばいな」とぼやき、くるりと茫然としたままの竹谷に向き直り近づくと、ひょいっと血に汚れた身体を軽やかに背負い、間も置かずに地面を蹴り駆けだした。
 突然の出来事に、体にこさえている傷が痛むこともあり反応しきれなかった竹谷がしばらくしてから鉢屋の背で非難めいた声音で友人の名前を呼ぶが、当の本人はケラケラと笑いながら暗い木々の中、道なき道を駆けて行く。
 その足は緩むことはなく、竹谷の耳にはヒュンヒュンと風を切る音が絶え間なく響いていた。

「俺を連れて行くのは止せ…!敵に見つかるぞっ」
「なぁにその時はその時。お前を放り捨てて応戦するからハチは気にしなくてもいい」

 その言葉が冗談でも無く本気だということが付き合いの長い竹谷には分かってしまったので、当然それ以上反論の言葉を口にすることは無かったが、代わりに竹谷は苦々しい様子で自分を担いでいる友人に声をかける。

「お前さ、もし俺が『三郎は仲間を見捨てない』て言ってたら、どうしてた?
「無論、私はお前を置いて学園に戻っていたさ」

 当然。と言わんばかりに返ってきた言葉は竹谷が想像していた通りのもので、思わず彼は傷の痛みからではなく、不審からその顔を顰めて小さな声で「お前って、ほんと訳わかんねぇ奴だよな」っと、ぼやく。
 すると、彼を背負っている鉢屋は酷く嬉しげに笑みを零し

「最高の賛辞として受け取っておこう」
「褒めてねぇよ、ばーか」

 笑みを深めた鉢屋に竹谷は心底呆れたように、そうぼやいてみせた。






 *補足
 もしも、ハチが「三郎は仲間を置いていかない」っと答えた場合、三郎はハチを置いて帰ると思う。
 ただその時に手負いのハチの変装をして、敵の目にわざと見つかり追手を一身に引き受けてハチの元から遠ざけると思う。
 ふらふらと怪我人のふりをして応戦して…。きっとそっちの方が危険がいっぱい。
 なので、手負いのハチと一緒に帰るのも、ひとりで帰るのもどっちも同じだ〜。と言う三郎の発言でした^^


 photo(http://www.chironoworks.com/biz/)

 090704