目の前にあるのは自分ではない。僕らの間に鏡はない。水面もない。 幻でも、虚像でもなく。それは人間だ。 鉢屋三郎。 変装の達人で六年生よりも術が上手いのではないかと噂される力量の持ち主だ。 そんな彼は何故か僕の変装を好んでしてみせる。なにか理由があったかもしれないが、僕は覚えていない。 ただ鉢屋三郎が僕の顔を真似ていて、目の前で僕になりきるかのように鏡合わせで動いているのだけが現実だ。 こうなった経緯は忘れたが、ただの暇つぶしだったような気がする。 戯れに三郎が暇を弄ぶ僕の前に、僕と同じように胡坐をかいて、同じように開くだけ開かれた書物を置いて、同じように動かすのも億劫で放り出している腕を真似て放り出し、鏡合わせの僕が出来上がった。 僕が「うーん」と唸ると、不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎も同じく「うーん」と唸り、僕が足を組み直せば、三郎も組み直す。それも数秒遅れてではなく、全く同じタイミングでしてみせるのだから、やはり鉢屋三郎は凄いのだ。 しかし、逐一あれもこれも真似られて、それも此方の思考を読んでいるかのように数秒のズレもなくしてみせるのだからいい加減、気味が悪くなり、三郎にこの暇つぶしを止めろっと言おうとして書物から顔を上げた。 そうすれば、同じタイミングで文面から視線を外し(そう言えば同じように書物を読んでいるのになぜ此方の動きがわかるのか)(やはり三郎は心の中まで覗くことができるのかもしれない)(なんてバカなこと考えてしまった)三郎は僕を見る。僕も三郎を見る。同じ色、同じ形のふたつの瞳がお互いを映し合い瞬いた。 ふと、目の前の三郎の頬を斜めに横切る傷を見た。 その傷は僕の頬にもある。三郎と同じく右頬。 この間、演習で森を駆けた時に僕が木の枝に引っ掛けて不注意でついた傷だ。 僕がつけたその傷を見て、三郎は僕の怪我を心配するのではなく、まっさきに自分の頬にも同じような傷を付けていた。 それを見て僕が驚いていると、三郎はニヤリと笑って 「雷蔵の傷は私の傷でもあるからな」 と、どこか誇らしげに言った。 僕には意味が分からない。 だけど、三郎のその一言に満足感が満ちて行ったことだけ、なんとなくわかった。 「傷、まだ治らないね」 「雷蔵の傷もまだ治って無いな」 「そうだね」 「そうだろう」 頬に手をやって傷のすぐ傍をなぞる。 すると、目の前の三郎も僕の頬に手を伸ばして、僕がしているように僕の頬にある傷を撫でてきた。 しかしそれは先ほどまでの鏡合わせのような仕草ではなく、三郎が僕の行動を追うようにして数秒遅れていた。 「なぁ、お腹空かないか?食堂に行かない三郎」 「私もちょうど腹が減ったと思っていたんだ雷蔵」 「それじゃあ行こうか」 「ああ」 三郎が立ち上がって、僕はそんな三郎を見上げる。彼は笑って僕に手を差し出してきた。こちらに向けられた掌に、僕は迷わず手を重ねる。 引き上げられる身体、立ち上がった僕は不破雷蔵。不破雷蔵を引っ張ってくれたのが鉢屋三郎。 時々、僕自身のことなのに、僕は僕と言う存在に迷ってしまう。 それはとても悩ましいことだった。 |
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酸性キャンディー(http://scy.topaz.ne.jp/)
090719