目の前に居る彼は、其れは、いったい何だろうか。
 恐怖に身体が震えあがる。どうにか手先に握った己の生命線とも言える唯一の武器であるクナイを零さぬように、効き腕とは逆の腕でクナイを握る腕の手首をぎゅっと掴み震えを収めようとする。込められた力に比例して震えは静かなものとなったが、それでも己の中に植えつけられた恐怖は消えてなどくれない。
 唇の隙間から虫の息のように細くこぼれる呼吸すら刹那、殺意に飛散させられて世界が震えあがる。
 ひとり、風を裂く音と共に彼の手によって人が死んだ。俺は静かに生唾をごくりと飲み込む。迸る鮮血が艶やかに彼を狂気に染めあげる。
 男は嗤う。血に酔ったかのように。それは既に人ではない。忍びでもない。
 ならば男はいったい何だろうか。

 ――怖い。

 この場所に来る前に、告げられた忠告のような静かな言の葉が今更、底冷えした脳内に響き渡る。そこで漸く俺は自身の身の危険に気がついた。
このまま、この場所にいたのでは己も彼の手によってもの言わぬ肉片に変えられてしまう。たとえ自分が彼と顔見知りであろうとなかろうと関係ない。彼は唯、目の前にあるものを破壊することだけを喜びとしているのだろうから。
 
 * * *

 学園のいたるところに植えてある銀杏の葉が鮮やかに黄色く色づいて来た頃。学園長先生の使いで、とある合戦場に行くことになった。当初は俺一人であったのだが、学園長先生の気遣いか、それとも唯の思いつきか同行者にひとつ上の先輩が任命される。
 七松小平太―体育委員の委員長を務める六年生だ。その実力は知っていたので、俺はなんの不安もなく忍務を引受けたのだ。
 忍務まであと数日となった頃、不意に廊下を歩いていた己の名を誰かが呼んだ。
 声だけで相手を判別できないという自分にしては珍しい現象に驚きながら訝しみ、くるりと声の方を振り返る。すると、其処に居たのは六年ろ組の中在家長次先輩だ。
 先ほどの声は先輩のものだったのか、と普段彼の声を聞いたことが無かった俺には新たな発見でもしたような気持ちになる。
 しかし、ここで疑問が俺の中に沸々と湧き上がってくる。
先輩と自分の接点はあるようでない。先輩の声をきちんと聞いたのだってもしかしたらこれが初めてかもしれない、と言うぐらいだ。そんな後輩に対して、一体ぜんたい中在家先輩は何の用があるというのだろうか。

「今度、小平太と忍務に行くそうだな」
「あ、はい」
「竹谷は小平太と忍務は初めてだろう」
「そうですが…なにかあるんですか?」

 中在家先輩が何を言いたいのか分からず、きょとんとしたまま首を傾げると、先輩は数秒の間をおいてジッと此方を見据えた後に「ひとつだけ」と、もったいぶる様に言葉を紡いだ。

「けして小平太の前には立ってはいけない」

 * * *

 その時の俺には、その言葉の意味が理解できなかった。ただ普段からぼそぼそと喋る中在家先輩がはっきりとした口調でそう告げてきたという事実だけが重たく心に圧し掛かり、俺は静かな緊張を抱えて「はい、わかりました」と確かに返事を返したのだ。
 しかし、今なら彼が自分に言いたかったことが理解できた。
 血に酔った彼は人にあらず―これは獣だ。今の七松小平太の前に躍り出ればその瞬間其れは獲物と認識されて喰い殺されるに違いない(喰うというのは比喩だ。流石に人間は食べないだろうが、そう思わせる気迫はあった)。
 幸いなことに忍務は彼がこうなる前に済んでいたので、俺は彼が正気に戻るまで離れた木陰に身を潜ませていようと考えた。
 しかし、先輩の殺意にあてられてなかなかどうにも足が動いてくれない。凍り付いた両足は地面に根が生えたかのようにその場に定着してしまっていた。
 その間にも先輩は辺りにいる人間をひとりふたりと着実に数を減らしていた。このままでは自分が彼の視界に入ってしまうのも時間の問題だ。

「動けよ、俺の脚…っ」

 唇を噛みしめて己を叱責するように、動かぬ両足を睨みつけながら細く高く声を上げる。すると、どうにか怖じ気ついた身体に血が通ったようで舞い上がりそうになった心で顔を上げた。
 しかし、俺の心は急速に萎んでいく。体がなまりになったように重く、呼吸すら満足に行えない重圧感。

 ――目が合ってしまった。

 理性を感じさせない、爛々と灯る鋭利な光を持つ双眸が此方を見ている。俺が唾を飲み込むと、彼が静かに歪な嗤いを零した。
 咄嗟に地面を蹴りあげその場から離れる。目線だけ先ほどまで居た場所を見やれば、そこには離れた場所に佇んでいた七松小平太の姿。
 彼は俺が居ないことを不思議そうにしたが、すぐに此方に気が付きとろりと目尻を下げた。
 必死で逃げようとした。しかしそれすら彼は許さぬように、俺の目の前には先輩が飛んできていた。あんなに離れていたのに嘘だろう。そう思う暇もなく、俺の身体に沈む七松先輩の蹴り。
 重たく鋭いその一撃を喰らっただけで胃の中の物を全てぶちまけたくなる衝動が込み上がってくる。だが、そんなことをしている間に恐らく俺は呆気なく殺されてしまうだろう。俺はなんとか地面に手をついて、体制を立て直し、どうこの場を逃げきるか思考を練ろうとしたその時だった。

「っ!」

 目と鼻の先に現れた先輩の顔。濃く薫る血のにおい。ふたつの狂気に染まる瞳の上に間抜けな面をした己の顔を見た。
 肩を思いっきり鷲掴みにされてそのまま地面へ叩きつけられる。呼吸が喉で突っかかり、乾いた吐息が強制的に口から吐き出される。
 地面に仰向けに倒れた自分の上に先輩が乗りかかった。勿論その手には幾人もの命を吸い上げた赤黒いクナイが握られている。
 俺は静かに死を覚悟して、先輩を見た。俺にはそうすることしか何もなかったのだ。
 目玉めがけてクナイの切っ先が振り下ろされる。滴る赤がその勢いで辺りに吹き飛ばされる様子が、コマ送りのように視界の端に映って見えた。
 だが、しかし自分の身に一向に異変は起きない。鋭い痛みも燃えるような痛みも、あふれ出る赤の温もりすら感じられなかった。ただ、俺の目に映るのは寸前で静止したクナイの切っ先だけである。

「竹谷じゃないか、お前」

 降って来た声はよく知るものだ。普段からバレーでいけどんしている体育委員長のものである。

「せんぱ―」

 クナイがゆっくりと離れて行った。ほっと一息つこうとする。
 しかし、俺にはそれすらまだ許されないようだった。ぴりぴりと焦げた殺気が辺りを強かに包み込んでいく。

「いいか、わたしの前には立つなよ」

 立ち上がった先輩は、転がる俺など目も留めずそう言い残すとさっさと消えて行ってしまった。
 俺はその後姿を目で追う様な事はせず、死んだように全身から力を抜いた。俺はしばらく立ち上がれそうにない。
 あの目に見据えられた時、自身の身体を蝕んだ緊張に囲まれた畏怖が抜け出てくれず内部で燻っているのだ。

「……六年生、怖ぇよ」

 両腕で視界を塞ぎ、乾いた笑い声を曇天へと登らせていく。
 自分の笑い声の後ろでは、辺りを駆ける先輩が残党を狩っている音が静かに世界を震わせていた。






sozai(http://swordfish.heavy.jp/blue/index.html)
091107