雨の降っている日のことです。
 暇を弄ばせている変装屋が居ました。いつも共に居る友人は他の友と外に出ているため彼は一人でした。
 彼らは濡れていないだろうかと変装屋は瓦から伝い落ちてくる透明な雫の舞踊を目で追いながら湿った空気にため息を落として、外に面しているためジトジトとしている長屋の廊下に一人腰をおろしていました。
 雨粒が万物を濡らし跳ねまわる音が世界を2,3周してきた頃には変装屋の隣に一人の青年が座っていました。
 名前を久々知兵助と言う青年は変装屋とも、彼が常に一緒にる友人とも、その友人が今日一日行動を共にしている他の友とも総じて友人です。
 彼もまた暇を弄ばせていました。
 そんな暇を弄んでいる久々知兵助の口から気まぐれのように言葉がひとつ雨粒に孕んでぬかるんだ地面へと落っこちてゆきました。
 変装屋は友人の口から出た言葉に驚いたのか、目を大きく見開いた瞬きをパチパチと繰り返してみせます。

「素顔が見たい?なんだい、今更そんなことを言い出して」

 久々知兵助は言いました。変装屋の素顔を見せてはくれまいか、と。変装屋は常日頃から他人の顔を借りて生活をしています。誰も彼の顔を見た者はいません。友人の彼も、彼も、教員も、いつも一緒に居る彼だって変装屋の本物の顔を見たことは無いのでした。

「今更?やっとじゃなくて?」
「やっと…?やっと、と言うと?」

 二人は横並びに廊下に座り雨が彩る庭を眺めながら言葉遊びをするように、一言一言の音を雨粒に宿らせながらジトジトした空気を揺らしつつ会話を進めています。湿気た廊下には彼ら二人以外に姿はなく、彼らの言葉と雨のおしゃべりが入り混じり何者も侵せないようなひとつの空間を造形していました。

「仲良くなった、素顔を見せてもらえるんじゃないかと自惚れるほど三郎に近くなった。そう、やっと思えるようになったってこと」
「成程」

 久々知兵助は庭先で塗れる木々の葉を眺めるだけで変装屋の友を見ることはせず淡々と述べました。彼の言葉に変装屋本人はうんうんと頷き一見すれば納得したかのように見える行動を取っていましたが、隣に居る久々知兵助には既に変装屋からの返答にある程度の予想がたっていました。

「しかし残念だ兵助。私はお前に素顔を曝してあげられない」

 ザァザァと天から零れてくる涙のような雨が、しとやかに変装屋の言葉を濡らしてゆきました。
 久々知兵助には落胆する様子も狼狽する様子も見られず落ち着いて雨粒にまぎれる言葉に耳を傾けています。彼は予想していました。変装屋が己の願いを聞き入れるはずがない、と。

「兵助は私に近くなった。親しくなった。恋しくなった。だから駄目だ」
「何故?」
「私の面は“呪”なのだよ兵助」

 ふふふ、と笑いながら久々知を振り向いた変装屋はまるで故意に意味深な言葉を作りだそうとしているように見せかけようと、頭を捻りながら既に心の中には遠い昔から存在しているであろう言い訳の言葉をひとつひとつゆっくりと発音していきました。

「私はお前を殺したくない」

 冗談のように弾むのは変装屋の彼の口から零れる音でありましたが、彼の面に被さっている友人の表情は動くことなく言葉の意の真剣さを強かに伝えてきていました。

「お前の素顔を見たら呪われるのか?」
「そうだ」
「死んでしまうのか?」
「そうだ」
「だから三郎は常に変装をしているのか?」
「そうだ」

 それならば俺はお前の顔を見せてくれと強張ることはできないな―と久々知兵助は淡々と述べてみせました。己から頼んでおいてちっとも残念そうではない雰囲気に庭先の茂みに隠れている蛙が不審そうにゲコっと一際大きく鳴いてみせます。

「なら、俺が―」

 土の中から出てきたばかりと思われる蛙の一声を聞き流しながら久々知兵助はゆっくりと、変装屋の顔を正面から見据えるために首を動かしました。
 友人の顔を借りている変装屋は人の顔ながらも浮かべる表情は彼自身のものというとても器用な事をして、久々知兵助をじっと眺めています。

「死ぬときはお前の素顔で看取ってくれ」
「…っは」
「死ぬ直前なら問題ないだろう」

 久々知兵助はとても満足そうにそう言いましたが、頼まれた変装屋本人はとても驚いて目をまぁるくさせています。
 ぱくぱくと口を開いては閉じてを繰り返して、やっとこさっとこ具現するに値する言の葉を用意した変装屋は釈然としない様子のままにポツリと言葉を落としていきました。

「私が、お前の死にざまに立ち会うかどうかも分からないのに」
「そう言われてみればそうだな」

 久々知兵助は変装屋の言葉を受けたことでその事実に気がついたようで、変装屋は呆れ混じりの目線で彼を見ていました。
 けれど、久々知はそれを気にすることなく、むしろそれが一体どうしたと言いたげに「なら、いっそ」としなやかな音をその薄く開いた唇の隙間から紡ぎだします。

「お前が俺を殺してくれ」

 ザァザァと雨が降っています。
 彼らの世界を包む幾千もの雫の降下が奏でる旋律に混じった久々知兵助の言葉に、変装屋の鉢屋三郎は背筋に悪寒が走るのを感じ、言葉を発した張本人は鉢屋三郎の次の行動を予想し薄く笑い、そんな彼らを見守るかのように庭先に隠れている蛙が大きな大きな声でゲコっと雨音にも風音にも負けず鳴きました。






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090407