遠く、子供のはしゃぐ声が染みわたる学園の一画を歩く太陽の光の色で染まった髪の青年が一人。青年は吹き抜ける暖かな風に目を細めて、金髪を緩やかに流していた。

「タカ丸さん」

 そんな彼を呼び止める声がふわり、と風に乗せられ彼の耳へと届けられる。軽やかな足取りを止めて頭の高い位置で結っている長い髪を揺らしタカ丸が声の方を振り向いた。
 そこには鉄紺の忍び装束に身を包んだ同じ年頃の青年が居た。タカ丸は彼を知っていた。だから名前を呼ぼうとしたが、はたっと開いた口が動きを止める。
 彼は悩んでいた。タカ丸はその顔を知っていたが、その顔は実はふたつ名前を持っている。その顔の本来の持ち主の名前と、その顔を借り受けて偽りの顔を持つ変装の名人の名前だ。
 この学園の新参者であるタカ丸には彼らの違いは見抜けない。
 故に、どちらの名前を呼べばいいのか迷い口先から言葉が出なかったのだ。

「あ、えっと…」
「不破です、五年ろ組の不破雷蔵です」

 タカ丸の戸惑いを察した様子で、慣れた文句を声にした不破雷蔵はその手に持っていた冊子をタカ丸に差し出した。

「兵助から頼まれて…はい、火薬の取り扱い講座の本。課題で今日の委員会に行けないから渡しておいてくれって」

 委員会の時間にタカ丸の火薬の取り扱いに危ういものを感じた火薬委員の五年生であり、不破雷蔵の友人である久々知兵助は自分の所有物であるその本を貸してやるから勉強しろっと先日の委員会活動の時間にタカ丸に告げていた。

「わぁ、わざわざありがとう。もしかしてこのためだけに?」

 しかし、友人であり温和で優しいイメージの不破雷蔵がこのためだけに自分に会いに来てくれたことが、どこか不思議に感じられたタカ丸は疑問の声を投げかける。すると、不破はそっと視線を逸らしてぽりぽりと眉間を掻きながら「うーん、えっと、ね」と歯切れ悪い様子で視線を彷徨わせた。

「これは、なんていうか切っ掛けが欲しくて」
「切っ掛け?」
「うん、タカ丸さんに聞きたいことがあったんだ」

 そう言った不破は頭の中で思考を2巡、3巡ぐるぐると巡らせてようやく意を決したのか、彷徨わせていた視線を目の前のタカ丸へと向けて真っ直ぐに見据えた。

「タカ丸さんは兵助が好きなの?」
「えぇ?」

 と、真剣そのものな顔で尋ねてきた不破に対し、タカ丸は突然の疑問の言葉とその内容に大きく驚愕の声を上げた。
 なんで、どうして、と慌てふためくタカ丸と、静かに彼の口から答えが出るのを待っている不破雷蔵。学園の一画で不可思議な空気を帯びた空間が出来上がった。
 しなやかに己が身に降り注ぐ威圧感に、タカ丸は先ほど提示された問いかけの言葉を脳内で構築させてゆき、おずおずと口を開いた。

「久々知君は面倒みが良いし、何も知らない僕にも丁寧にいろいろ教えてくれて優しいから好きかなー」

 あ、それと―。一度言葉を区切り、タカ丸はうっとりと蕩けるような笑みを浮かべて「綺麗な髪だしね」と締めくくった。
 最後の言葉にきょとんとしていた不破だったが、顎に手を当ててふんふん、と納得した様子で頷きゆっくりと視線を持ち上げて、ニコニコと笑うタカ丸に首をかしげて見せる。

「タカ丸さんって誰にでも好意を抱いてそうですけど、好き嫌いの判断って髪の毛でやってるんですか?」
「そうでもないよー、土井先生なんて髪の毛最悪だから大嫌いなんて言うわけじゃないし。あ、けど土井先生や竹谷くんは髪質的な事を言うと全然駄目だね!もーなんであんなに痛めちゃうことできるのか、正気を疑ちゃうよ!」

 この世にそんなことがあるのかと言いたげなタカ丸の熱弁をにこにこと聞きながら不破は「あはは、ハチに今度伝えとくよ」と笑いながら、このまま怒り狂って二人の髪を全て毟ってしまいそうなタカ丸に向って言葉を続ける

「それじゃぁ―」

 と言葉を紡ぎ、タカ丸の暴走をしなやかにストップさせた。

「僕、不破雷蔵は?」

 不破の口から紡がれた言葉に一瞬、世界が無音になる。鳥の囀りも、風の音も、遠くから聞こえていた子供の声も、わずかな一時、死滅したかのように消えうせた。
 そんな世界の中心で、タカ丸は心臓が止まるかと思うほどに驚いた。
 先ほどの言葉にも驚いていたが、今度の驚きはまた一段と大きく、そんな風にタカ丸を仕立て上げた不破は邪気のない笑みで「どうなんです?」と再度、催促するように尋ねた。
 不破のその言葉に、固まっていたタカ丸がおずおずと動きを始める。ぶらりと落ちていた腕を持ち上げ彼は不破雷蔵の顔に手を伸ばす。
 ――頬に触れる。そう思われたタカ丸の手はそのまま通り過ぎ結ってある不破の髪の毛に触れた。
 わずかに強張った顔をしていた不破がその感触に静かに息を吐き出し、自身の髪を触りながら観察しているタカ丸の面持ちをひっそりと観察していた。

「…わからない」
「どうして?好きか嫌いか、簡単なことじゃないかな」
「うーん、だけどこの髪…死んでるし」

 そう呟いたタカ丸言葉に、不破の表情に影が走った。それはとても微細なもので、忍の勉強を始めたばかりのタカ丸では気付けない程のささやかな変化であった。したがって、目の前の不破の小さな異変に気づかぬタカ丸は自身の手先が掴んでいる髪の毛を眺めながら言葉をつづけた。

「土井先生たちの髪は痛みが酷いけど生きてる。だけど、これは生きて無い死んだ髪だ」

 淡々と、しかしどこか力強くきっぱりとタカ丸はそう言いきった。

「たとえ綺麗に櫛を入れていようとトリートメントで手入れしてあっても、やっぱり息をしているのとしてないのじゃ艶が違うからね」

 どこか楽しげに言葉を紡ぐタカ丸に対して不破はすでにその顔から笑みを消し、そこに感情など一切窺うことのできない無表情を飾りタカ丸の視線を受け止めていた。

「僕は君の本物の髪を見て無いから、好きも嫌いも言い様がないよ――五年ろ組の鉢屋三郎君…?」

 途中までは自信満々に、それこそ胸を張っていたのに最後の最後ではどこか頼りなさげに、問いかけるようにしてタカ丸は彼の頭に浮かんだ答えを口にした。
 すると、目の前の不破雷蔵が無機質な面持ちから一転し、底意地の悪そうな微笑を浮かべてするりとタカ丸の手からすり抜けて距離を取った。

「髢で見分けられるなんて既定外でした。いやいやぁ意外、意外」

 そう言って笑う彼は最早不破雷蔵では非ず。五年生の中で名高い生徒の一人に変貌していた。

「あ、あのぉ鉢屋くん…」
「ん?あぁすみませんでした、ちょっとした冗談です」

 おずおずと、何が何だか分からないままのタカ丸が目の前の不破の変装をした鉢屋へと声をかける。彼はタカ丸が言葉の続きを発する前より、その先を汲んであっさりとした謝罪を口にした。
 おかげでタカ丸は深く追求もできず間抜けに「はぁ」と声を返すだけしかできなかった。そんなタカ丸に鉢屋は絶えず笑みを浮かべている状態で「それで結局はどうなんです」という。しかし、その意図が分からずタカ丸はきょとんとしたまま首を傾げて「何がです?」と正直に返した。

「久々知兵助ですよ、兵助。好いているんですか?」
「それはさっき言ったとおり――」

 タカ丸が口を開くが、不自然に彼の言葉が途切れる。鉢屋の指先が彼の開いた口に人差し指を立てて、言葉が止まるまじないをかけていた。

「友情、尊敬ではなく、恋しいるかという次元で、です」
「こ、恋!?」
「分かりやすく言えば、兵助を抱きたい?いや抱かれたい、かな?」

 そう言った鉢屋の顔は酷く楽しそうだった。
 一方のタカ丸は顔を真っ赤にさせて後ずさりながら「な、な、なっ」と発する言葉を見つけることが出来ずに金魚のように口をパクパクと開いて閉じての動作を繰り返していた。

「不破雷蔵を演じていた私を誤魔化せても、鉢屋三郎である私は誤魔化せない」

 クスクスと笑いながら、愉快そうにそう言った鉢屋の目元がすうっと細まり、先ほど己から一歩引いて出来た距離を詰めるように大きな一歩を踏み出して真っ赤なタカ丸との間を狭め笑みを深くした。

「どうなんです斎藤さん」

 つり上がった口の端、にやりと見える歯、挑発的とも思える双眸。その全てが、斎藤タカ丸をじわりじわりと確実に追い詰めていた。






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