「兵助は火薬の臭いがするな」 「そうか?」 長屋の廊下に腰をおろして、風呂上りで火照った体を沈めるようにぬるい空気の中薄い雲から覗く淡い月を眺めているといつの間にか隣に座りどこから拝借してきたのか熱燗を嗜んでいる三郎が不意にそう言った。 「ああ、風呂に入ったあとでも私の鼻には突く。あぁあと豆腐のにおいもかな」 においにおい、と言うので己の体をスンスンと嗅いでみたが彼の言う火薬と豆腐のにおいは分からなかった。ついでに三郎の方に鼻を向けてスンスンと同じように嗅いでみるが、彼からはなんのにおいもしなかった。 て、言うか豆腐のにおいってなんだ。豆腐って。 「そう言う三郎は、なんの臭いもしない…。あ、酒の香りはするけど」 彼も風呂上りなのか、なんの臭いもしない(彼の手の中にある熱燗は別として)。しかし三郎は俺のように風呂上りです全開オーラで肌を紅潮させたり、全身から湯気をたち昇らせてもいない。不思議なことだ。 不思議に思ったのはどうやら俺だけではなかったようで、三郎もはて?と言いたげに首を傾げて己の手首を鼻先に持って行きすんすんと鼻を鳴らす。 「おかしいな、雷蔵のにおいがしない?」 「んー雷蔵のにおいはしない」 「まいったな。それじゃ私の変装が完璧じゃないということになる」 「においまで変装するのか?」 驚いて問いかけると三郎は当たり前と言いたげに胸を張りながら「もちろん」と言いきった。 俺では真似できないような所業だ。うつろ、そこまでやる理由がない。 「けどそれじゃあお前の、三郎のにおいは?」 脳裏に浮かんだ疑問を吐き出せば、一瞬きょとんとした三郎だが、直ぐに目を細めて俺の姿をその頭上に浮かぶ三日月よりも細く鋭利な眼で見据えた。 「そんなもの存在しない。存在してはいけない。私ににおいなんかあっては変装の時に鼻でばれてしまうだろ」 言われて絶句する。 彼には一体、何をもってして己の変装にそこまで完璧を求めているのだろうか疑問でならない。 「言うならば、私のにおいは雷蔵のにおい。そうでなくては困る」 「嘘だ。三郎は目の前に居るのに、お前のにおいが無いなんてことはないだろう。三郎と雷蔵は違う、同じではないんだから」 そんな事を言って、目の前の自尊心の塊である鉢屋三郎は怒ってしまうかと思いもしたが、こちらの思考を裏切って彼は酷く面白そうに笑い声を滲ませ、手の中の盃をぐいっと煽った。 「そうだな、そうだとも。だがしかし兵助」 隣に腰を据える三郎が此方に身を乗り出すだけで俺との距離はぐんと狭まって、すぐそこにある三郎の顔に思わずグッと息を飲み込んだ。 「お前に私たちを見分けることができるかい?」 挑発するような三郎の言葉。俺は間髪入れずに「もちろんだ」と断言した。それが三郎には予想外だったようで、驚いたように彼の双眸が大きく見開かれる。恐らく彼の中では俺が戸惑い迷う姿を思い浮かべていたのだろうが、俺にしてみればそんなこと悩み迷う必要など無い。 「やれやれ参ったな。また一から修行のやり直しをしなくてはいけない」 肩を竦めて笑いながら三郎がそうぼやいた。ゆっくりと身を引いた三郎はそのまままだ中身が残っている熱燗を手で揺らしながら立ち上がり冷えた廊下を素足でかすれるような音を残しながら歩いて行く。 その背中を追いかけるわけでもなく、ただぼんやりと眺めながら暗がりに飲み込まれそうになる背中に向けて「おやすみ三郎」とのんびりと声をかけると、三郎は振り返らずに片手を上げてヒラヒラと手を揺らして声のない返事をかえしてくれた。 |
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090524