臭いのある薬をうっかりばらまいて狭い室内が独特の、まぁ何と言うかくさい臭いが充満して息もできないぐらいになった。こりゃいかん、と足をフラフラさせながら戸まで歩み寄りふら付きながら閉め切られていた戸を開く。淀んだ空気が万延する世界からの解放。喜んで新鮮な空気を肺の中に吸い込んで、吸いこんで、吸い込みすぎて咽た。 「あ、善法寺先輩!」 咽たことでひぃひぃと苦しい息継ぎをしながら眼尻に涙を溜めている私に、遠く廊下の先から声が掛かる。 ゆるりと首をかしげてそちらを見れば珍しいことに、いつも飄々としてニヤニヤと悪だくみをしている顔ばかり浮かべている鉢屋三郎(たぶん彼)が物凄い形相で廊下を駆けながら此方に向かってくる。 僕が挨拶をしようと口を開くと、彼が被せるように僕を―というよりは、僕の背後を見ていつものように顔を顰めながら「また変な物を…」とぼやいた。 どうも鉢屋三郎は普通の人には見えない悪いものが見えるらしい。 そして彼曰く、僕はその悪いものに好かれやすく、普段の不運もそれが原因なんだとか。そうは聞いているけど、それが真実なのか僕には確認する術がないので、とりあえずうんうんっと納得したように頷いている。 「というか、それどころじゃないですっ。先輩匿ってください!」 「珍しい鉢屋がそんなに慌てるなんて」 化粧をした額に汗を浮かべて捲し立てる彼の姿はとても奇妙であった。珍しいものが見れたなぁ、と内心呟いて保健室の中へ促すように半身ずらして道を譲りながら「入るといい」と声をかける。 鉢屋は僕の許可を得ると「失礼しますっ」と余裕のない礼を述べすぐさま部屋の中に身を滑り込ませると、僕が瞬きをした瞬間その姿をどこかに忍ばせて此方の視界から消え失せてしまった。 そのあまりの神技としか言えない彼の行動に目を見開いて、パチパチと瞬きをしながら廊下から部屋の中を凝視していると再び廊下の先から自分の名前を呼ぶ声がするではないか。ふっと部屋から意識を外して声の方を見れば、長く伸ばした艶やかな黒髪を揺らして駆けてくる友人の姿があった。 「あれ仙蔵。どうしたの?」 「鉢屋を見なかったか?」 「え、鉢屋?どうかしたのかい」 予想だにしなかった名前の出現に内心どきりとしたが、こういったことは顔に出ない性質だ。さらりと受け流して聞き返すと、仙蔵は酷く愉快そうに笑みを零して目を細めた。 「なに、少しからかってやろうと思ったら逃げられてな」 そう言った仙蔵に純粋に驚いた。この目の前にいる友人はどこか捻くれている性質の持ち主でなかなかうまく表面を取り繕っているが根本部分は同級生では負えないような所もある。彼が心底楽しそうにするのなんて、同室で同じ六年い組の彼を全力でからかっている時を代表として数少ないのに。 そんな彼が、本当に楽しそうに笑ったのだ。僕たち六年生に関することではないことで、だ。 一体どういうことだろうか。明日は槍でも降ってくるのだろうか。 そんな事をぼんやりと考えていると、仙蔵は愉快そうな顔をしたまま「逃げ足の早い奴め」と先に続く廊下の先を見据えながら言った。 「仙蔵は追っかけるのが好きだね…鉢屋は馬鹿だな、逃げなきゃいいのに」 「それだとつまらんではないか」 ふふっと同性の自分ですら綺麗だと思う微笑を転がす友人に僕は苦笑を零しながら「君の愉快の元、鉢屋三郎なら凄い勢いで向こうへ駆けて行ったよ」と彼がやってきた方向とは逆の廊下を指さしてやる。 「そうか」 「あんまり苛めすぎないようにね」 注意してみたけれど、既に走り出していた彼の耳に届いたかどうかわからなかった。 * * * 部屋の中に入り、戸を閉めて振り返ると部屋の中央に座布団を敷いてどっかりと座っている鉢屋三郎が居た。全身から疲れましたオーラを滲ませながら重々しい空気を纏っている彼に苦笑を飛ばしてやる。 「驚いたよ。鉢屋は仙蔵に好かれているんだね」 「いい迷惑です」 尋ねてみると彼は酷く苛立ちそうに、そう吐き捨ててぶすっとした顔をする。普段の彼と違うそんな態度に思わずふふふっと笑うと言葉なく睨まれたので僕はニコニコしながら疲れ切った彼のためにお茶を淹れてやることにした。 「けど、なにかしたのかい?昔はそうでも無かっただろう君たち」 「ちょっとした契機があって―」 そう言うと鉢屋は遠い目をしてハァっと重々しい溜息と共に小さくぽつりと「まさか向こうが覚えているなんて…」とぼやいた。 僕にはなんのことか分からなかったけど、なんだか大変そうなことだけは見当がついたので、深くは追求せず淹れたばかりのお茶を彼の前に差し出してやった。 「疲れただろ?どうぞ」 「すみません」 普段の彼からは想像できないような疲労しきった声音に、どうしたものかと頭をひねらせる。まぁ何とでもなるだろうと、結果を弾きだしたので僕は彼の悩み相談に乗るようなことはせずそのまま茶化すように笑みを飛ばす。 「礼だったらこの肩こりをどうにかしてくれないかな、どうも最近調子が悪くて」 「そりゃそんなにでかいのを後ろにのっけていれば肩もこりますよ」 のったりと垂らしていた頭を持ち上げて鉢屋は此方を見向くと、億劫そうに僕の方へ腕を伸ばして―― 「おぉ軽くなった…!いやぁ助かったよ鉢屋」 僕の顔の横を通り過ぎて背後へと伸ばされた腕が引っ込んでいくと同時に、ふわりと全身が軽くなり息苦しさや胃の辺りのムカムカまでもが無くなった。恐らく、鉢屋が僕の悪いものを取って行ってくれたのだろう。 「また変なものに憑かれて……先輩はあまり戦場にはいかない方がいいですよ」 鉢屋がどこか同情めいた眼差しを僕に向けてそう言った。彼の言葉通りならば、戦場など人が多く死ぬ場所では、生への渇望死への恐怖が渦巻いて酷く良くないものが溢れかえっているそうだ。そんな場所に憑かれやすい僕は行くべきではないという彼の言い分もわからなくはないが、それを聞くわけにはいかない。 彼の忠告はありがたいが、僕には僕の目的と信念がある――。 「そうも言ってられないよ。これでも私は忍者の卵なんだからね」 「先輩……」 「そうだ、伊作とて忍。たとえ敵味方選別無く手当てをしようとな」 不意に背後から聞きなれた声が聞こえた。 思わず仰け反って後ろを振り返れば、先ほど廊下の奥へ駆けて行ったはずの立花仙蔵が保健室の戸に寄りかかって立っているではないか。 「うわ仙蔵!?いつの間に―」 驚きの声を上げていると、ふっと視界の端を影が横切った。何かと思う間もなく、それは仙蔵の手に捕まえられる。逃げそびれた哀れな後輩は満面の笑みを浮かべた友人の手に囚われて逃げられない。青い顔をしている後輩に仙蔵が「そう急くな鉢屋」と、その戒めを解く気配など一切させずに笑みを転がす。 「よく此処がわかったね仙蔵」 「私を甘く見てもらっては困る」 僕を見て先ほどもしてみせたように、にやりと口を吊り上げて目を細めて笑う。なんというか艶やかな微笑だ。目を奪われる前に、背中に冷や汗が伝うような寒気。今更ながら、彼に捕まっている鉢屋に同情の眼差しを向けた。 「さぁ鉢屋ゆっくりと茶でも飲もうではないか。伊作、私の分の茶をくれ」 「はいはい」 保健室から逃げ出そうともがく鉢屋の襟を引っ掴んだままずるずると部屋の中へ進む友人の姿に、僕なんかよりも鉢屋の方がとんでもないものに憑かれているんじゃないかと思ってしまった。 |
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090614