「ほぉ、無理かと思ったら終わらせてきたのか」

 そう言ったのは自分の上司である立花仙蔵だ。ちなみに差し出したのは先日彼が私に来週の月曜日までに提出と言って押し付けてきた書類だ。彼の言葉のとおり無理難題だった。
 しかし、だからと言ってここで私が出来ずに彼に頭を下げるのも、彼がどこぞの誰かに頭を下げるのも納得できなかった。そうすると自然、私は無理と思われた仕事をなんとか終わらせることができたのだから人間やればできると言うのは本当なのだろう。

「お給料がこれ以上少なくなったら溜まりませんから」
「なんだ減らしてほしいのか?」
「人の話聞いていました?」

 目の前の上司は此方の主張などまるで耳に入っていない様子で、無言で私が手渡した書類に目を通しディスクの引き出しへとしまう。
 もう用は無いだろうと「それでは失礼しますよ」と一応相手は城氏なので断りを入れ立ち去ろうとした時だ。

「鉢屋」
「……なんですか」

 しょうもないことだったら一発ぶん殴る。相手が上司だろうと関係ない。なんせ私は今日まで書類を仕上げるために殆ど眠っていないのだ。今だって下手したら瞼が閉じそうになるのを必死に堪えて、皆が帰った後もフロアに残ってパソコンと向き合っていたのだ。早く帰らせろこの野郎、と目で訴えると、立花仙蔵は裏のありそうな微笑を浮かべ私を見上げた。

「頑張ったお前に褒美をやる」
「はぁ…」
「こっちに来い」

 褒美なら今すぐ温かい布団と安眠をください。そう思うものの言葉にすることすら億劫で、早く目の前の上司の戯れを満足させて帰宅しよう。そう思って鈍る思考のまま彼の言うとおりディスクの方へと近づく。
 しかし、ディスクの前に立っても彼は動かない。不審に思った私に彼は「そこではない、こっちだ」とディスクのあちら側、彼の隣を指さした。
 いろいろ面倒で大人しく言うことに従い彼の隣へと立つ。すると、更に彼は屈めと言うので若干イライラし出した内心を隠すことなく怪訝な表情のまましゃがみ込む。先ほどまで見下げていた上司の顔がいまや見上げる形となった。
 私の視界が陰る。上司の身体が灯りを遮断したのだ、と気づいた時には彼の顔が目の前にあった。目の前にあると認識した時には既に唇に柔らかな感触が触れていた。
 その柔らかな感触が何かを理解する前に、既に距離を置いている上司が「目ぐらい潰れ」と呆れ混じりに嘆息を吐いた。
 彼の唇がへの字に曲がる。唇が、そう唇――

「うおぉぇえ!?な、な、なに、してッ」

 眠気にまどろんでいた意識が一気に鮮明になる。
 ふと気づけば女性に人気のある上司の整った顔が直ぐ目の前にあって、睫毛は長いし肌は綺麗で目を奪われそうになる――ではなくて!

「何だようやく我に返ったのか」

 吐き出す言葉の全てが肌に触れ合う様な距離に慌て、勢いよく立ちあがった。
 バクバクと左胸で今まで嘗てないほど激しく脈打ち自己主張している心臓の鼓動を聞きながら、そうなった原因とも言える目の前の上司を手で口元を覆ったまま見下ろす。
 彼は私のように取り乱した様子もなく、平然と変わらず椅子に座り面白そうに笑いながら私を見上げていた。

「笑ってる場合じゃっ、あんた男の私にキスしたんですよ!?」

 言葉にしてみれば夢のような笑い話だが、悲しいことに実話と言う。先ほどまでの軽率で浅はかだった己を殴ってやりたい衝動が込み上げてくる。
 己の唇に未だに残る彼の唇の感触が静かに現実を認めろと促しているようで、私は服の袖で強く唇を拭いながらキッと目の前の男を睨みつけ、そう言った。
 だが、しかし相手はあの立花仙蔵だ。彼は悪びれた様子もなくサラリと「そうだが?」と微笑みを浮かべていた。その澄ました顔をぶん殴りたくなるのだが、相手は上司と言う事実によって理性がそれを必死に止める。

「なにしてくれるんですかっ!」
「褒美だ」
「はぁ?」

 何言ってんだこの人。トチ狂っているんじゃないかと疑い、怪訝な顔を浮かべると、立花仙蔵はゆるやかな動作で片腕を私の方に伸ばしピンで止まっていたネクタイを掴むと、遠慮のない動作でグイっと下へ引っ張った。
 当然、私の身体は前のめりになる。慌てて倒れぬように、彼の座る椅子の手すりに腕をついてなんとか持ちこたえた私に、立花仙蔵がずいっと顔を近づけて言った。

「なんだ、もっと先までやらないと褒美にはならないのか?贅沢者め」
「いやいやいや、何言ってんだ――ちょ、ば、どこ触って」

 再度目の前に現れた、立花仙蔵の整った顔が刻む美しくも妖艶な微笑みに呑まれそうになりながら、なんとかその場から逃げ出そうとするも、彼の手がそれを許してはくれない。
 こうなれば一か八か助けを呼ぼうと大きく息を吸い込み、言葉を発しようとしたがそれはあっさりと彼に防がれてしまう。
 彼の前で無防備に口を開けるべきではなかったのだ。
 再び開かれた唇に彼の唇が重なり、それは先ほどの軽い戯れとは違い深く私を犯す。
 絡み合う舌の感触と、途切れてしまった呼吸の息苦しさに、ただただ私は眉を寄せて顔を顰めることしかできなかった。




09/10/25