兵助が最近物思いにふけることが多くなった。どこか上の空で人の気配にも疎く、それはもう面白いぐらいに悪戯のし甲斐があった。
 ただ、あまりにも度が過ぎていたので、今日もまた長屋の屋根の上で物思いにふけっていた兵助に直接に原因を尋ねてみた。
 すると、兵助は言う。「想い人ができた」と。一瞬の間を挟み、放心しきった俺に彼は気がつくこともなく言葉を続ける。どうやら胸のうちに抱えすぎて、熟しすぎた想いが腐れ落ちる寸前であったようにみえた。
 一生懸命に言葉を捜して己の中にある気持ちを形付けようとしている兵助の言葉を聞きながら私の心の中にはあるものが芽生えていたが、そんなことは表情におくびにも出さず静かに彼の話に相槌を打ち、時にはあれやこれやと言葉を挟みながら兵助の気持ちを知った。
 どのくらいの時間がたっただろうか。短い時間だったかもしれないが、長い時間だったかもしれない。少なくとも、私にはとても長く感じられた。そんな時、ふと下の方から私の名前を呼ぶ声が聞こえる。どうやら隣に座っていた兵助の耳にも入ったようで、屋根の上の二人に無言の沈黙が舞い降りた。

「鉢屋せんぱーい、どこにいらっしゃいますかー!」

 鳥の囀りに混じって屋根の下から聞こえてきた声は下級生のまだ幼さの滲む声。

「庄左ヱ門の声だな」
「しまった……委員会の時間だ」

 今日は珍しく学級委員長委員会の集まりがある日であった。
 ここ数日の兵助の奇行が気になっていて、委員会のことを忘れてしまっていたがこのままではいけない。この委員会は一年生がひどく真面目で上級生である私がよく叱られてしまうのだ。
 それを知っていたからか、それとも自分に非があると思っているのか兵助が申し訳なさそうに頭を垂らして謝罪の言葉を口にする。

「悪かったな三郎、こんなつまらない話につき合わせてしまって」

 しょんぼりとしょぼくれる兵助に、胸のうちで炙れる感情を押し殺しため息交じりにも苦笑を浮かべてその黒髪をくしゃりと撫でてやる。
 不安そうな顔でこちらを見上げてくる兵助の頭から手のひらを離して立ち上がり、空に向かって背伸びをした。

「いや。相談ならいつでも受けるからあまり思いつめるなよ」

 そういってニヤリと笑んでやると兵助はほっと安心したように表情を和らげて「ありがとう」と礼を告げた。
 綻んだ微笑にどこか罪悪感を感じながら、胸のうちがちくりと痛むが表になど露にも出さずにいつもの調子で浮ついた笑みで兵助へと笑いかけながら踵を返す。
 下界からは絶えず庄左ヱ門の声が上がっているので早く言ってやらねばならない。

「それじゃ、またな兵助」

 そのまま瓦の上から飛び降りようとしたが、背後で兵助が立ち上がる気配を感じ躊躇して一瞬動きを止めると、そんな俺の背中に「三郎」と兵助の声がかかる。

「俺、お前が友達でよかった」

 ゆっくりと振り返ると、兵助の信頼に満ちた眼光を俺に注いでにっこりと照れくさそうに笑んだ。

「それだけ。また、明日な。委員会頑張れよ」

 そう言って兵助が手を振る。自分も静かに手を挙げ彼に音無き返事を返し、瓦を蹴り下へと飛び降り兵助の前から逃げるように姿を消した。



「庄左ヱ門」

 小さな子どもの背中をぽんと叩きながら名前を呼んでやると、びくりと小さな肩が震え大きな目がこちらを振り向いた。
 最初、その目には驚きにかき消されていたが、直ぐにじりじりと炙れた怒りが顔を覗かせてその顔がしかめっ面へと変わる。

「鉢屋先輩!どこへ行っていたんですか、委員会の時間ですよ!」
「あはは、すまないかったな」
「もー早くしてください」

 小さな手が私の手を握り小さな力がぐいぐいと私を引っ張っていく。
 一年生の彼の口から説教まがいの小言がつらつらと述べられるが、私の頭の中には先ほどまでのやり取りが鮮明にこびりついていた。

「なぁ庄左ヱ門」
「なんですか、先輩」
「私は上手く笑えているか?」

 静かな声でそう問いかけると、足早に進んでいた庄左ヱ門の足が不意にぴたりと歩を止めた。
 ゆっくりと振り返った庄左ヱ門の顔。無言で緩やかに彼を見下ろすと、純粋で真面目な眼差しが私を静かに射止める。

「……どうかしたんですか?」
「失恋した」
「えっ」

 言葉にした途端、胸のうちで殺していた感情が醜くにんまりと口の端を吊り上げた。
 
「ちょ、せ、先輩?」
「どうしよう庄左ヱ門。私、失恋してしまったよ」

 気づけば私は目の前の小さな身体にすがり付いて、狭くまだ筋肉の育っていない肩口に借り物の顔を埋めていた。
 こんな私は、鉢屋三郎ではないと自分でも思うがどうしようもできないことも事実で。
 庄左ヱ門は初めて見るであろう鉢屋三郎の一面にひどく動揺し戸惑っているようで、そんな気にさせて申し訳ないと思いながらも、彼の子ども特有の暖かさがジワリと痛んだ私の心を静かに癒してくれていた。

「元気、出してください先輩」

 彼なりの精一杯のその言葉に涙が溢れるかと思ったが、私の目尻は無常にも乾いたままだ。

「無理だよ、庄左ヱ門」

 世界から切り離されたような長屋の屋根の上でのやり取り。兵助の気恥ずかしそうな顔、戸惑った声音、そして兵助の口からつむがれた名前。
 私は兵助の意中の相手の名を知っていた。知った相手で良かったと思う。知らぬ相手ならば後腐れなくきっと私はそいつを殺していたから。
 酷い感情だ。醜く、誰にも見せられないような鉢屋三郎の中に巣食っている魔物のようなそれを皮一枚に抱えて、純粋な子どもに縋り付いている私はなんと滑稽なことだろう。
 しかし、そうは思っても誰かに縋り付かずには居られなかった。
 それほどまでに、私の中で彼の存在が大きかったものなのだと実感させられ、そのことは「泣きたい」と私に思わせた。




09/10/25