毒の味、夢の味、絶望の味、
希望の味、命の味
返り血に濡れたまま湧き上がったグルメコロシアムの舞台を後にした。相手はどれも捕獲レベルの高い怪物ばかりであったが、俺はそれらをすべて倒し生き残った。 自然界で行われる生きるための殺し合いではなく、金と娯楽のための戦い。嫌気がさそうと拒もうと、それは毎日決まって繰り返される悪夢のような日常。 出入り口を過ぎ、次の見世物のために控えられている化け物が入った檻が並ぶ暗がりの通路へと踏み入った。その時眼球の奥の奥が強烈な痛みに襲われた。勝利の余韻に浸っていた熱い身体が冷水をかけられたかのように急速に冷えていく。 なんだ、と思う間もなく同年代とは比べ物にならぬほどに鍛え上げられた体躯が支えられることができなくなり、ふたつの足が折れた。 ガクリ、と視点が低くなり膝が冷たいアスファルトの上に崩れ落ちる。 周りの厳ついIGOの職員が驚いた様子で声を上げバタバタと走り回り、声が幾重にも重なり分厚い音が忙しく駆けずり回った。 「ッァ」 眼球を抉り出さんばかりの痛みが毒によるものだと早急に理解し、小さく舌打ちを零す。ただの毒ではない、先ほど相手をした猛獣の3匹は猛毒を所持していた。その牙に、爪に、呼気に。個々の毒素に対する抗体は自身の体内にも存在していたが、現在自身を蝕んでいる毒の症状はどの毒にも当てはまらないものだった。 おそらく3つの異なった毒が自分の中で巧妙に絡み合い新たな毒素を生み出してしまったのだろう。そうなってしまっては自分の中にある抗体は意味をなさない。 眼球の奥で痛みが弾け、全身の骨が軋みを上げ、地面についた両手の爪からは真っ赤な血が滲み出ていた。IGOの奴らに抗体を寄越せと叫ぶが、喉もやられていたらしい言葉にならない大きな音は獣の慟哭のように天井を貫き、双眸からはぽたり、ぽたり、と痛みを凝縮させた真っ赤な涙が零れ落ちた。 意識が世界から隔離されていたかのようで苦しみ悶え続けてどの位たったのかも分からない。気付くと辺りの物を我武者羅に破壊し、見の内に宿る毒の痛みに血反吐を吐き散らしていた。 ところが不意に騒々しい世界にしなやかな静けさが広がった。 自分の暴走で血の気だっていたグルメコロシアムの出演者達も俺同様に一斉に息を潜める。静けさの発生元、俺たちは総じてある一点を見つめていた。 視線の先には一人の人間が居た。 年は俺と同じぐらいの少年。黒い髪が肩に触れるか触れないか、そのぐらいで揺れ動いている。俺のように体を鍛え上げている様子はなく、ひょろりとした細い身体の線と彼の青白い顔色、着ている服は施設の身体検査の際に纏う汚れ一つない眩しいほどの白い薄着、それらが相俟って少年を病的な弱弱しさで飾り付けていた。 しかし、俺は彼を目の前にして動けなくなる。他の者たちも同様に、息を潜ませ相手を窺っていた。 なにか本能的な部分が警報をガンガン鳴らして、目の前のひ弱そうな少年が危険であると告げていた。理由など無い、ただ彼からにおうニオイが今まで倒してきた怪物のどれよりも危険なものだということだけが確かだった。 少年はゆっくりとした足取りで此方に近づいてきた。感じたことのない危機を目の前にし緊張で強張っていた身体が忘れていた激痛を思い出し、瞬間ハッと我に帰る。見ないが感じる目の前の少年の危険性に殺気を強く放ち、近づいてくる彼に牙を見せ威圧した。 得体のしれない恐怖だった。そんなもの初めてであったし、今まで遭遇したことのない未知の不安が毒に蝕まれた己に圧し掛かる。 少年はどこか寂しげな表情を浮かべたが、それでも此方に歩み寄る足を止めることはしなかった。 徐々に近づいてくる恐怖。畏怖に満たされた身体は地面を蹴り、相手の少年に襲いかかっていた。 ガンガンと己の身体が痛みで引き裂かれるような痛みに襲われる。この毒を喰らった先ほどの戦闘で腹が裂かれ内臓が少々はみ出していたが、それでも逃げろと告げる本能に逆らって目の前の脅威を薙ぎ払おうと動いた身体にはささやかすぎる障害だった。 何故自分が怪我も毒ももろともせずに相手に飛びかかったのかはよく分からず、もしかしたら毒で脳もやられてしまっているのかもしれないと考えた(ちなみに考えたのは後日だ)。 そんな自分を目の前の少年は臆する様子もなくただ驚いたように「よく動けるね」と感嘆にも近い言葉を吐いて、俺が彼の骨を折るつもりで振り下ろした拳を易々と避けられ腸が出かけている傷口に打撃を沈められた。 内臓を直接殴られる痛みに視界がチカチカと瞬き真っ白くなる。なにも見えぬまま、ふらりとよろめいて地面に膝をつく。ひ弱そうな外見に見合わず相手はそれなりに力もスピードも持ち合わせているようだった。次は油断などしない―そう毒がまわる脳内に言葉を浮かせ立ち上がろうと顔を上げたその時だった。少年の掌が俺の口を塞ぐように押さつけてきた。 瞬間、目の前にあった目と目があった。二人の視線が僅かなすき間で交差してぐちゃぐちゃに絡み合う。黒に思える瞳は深く陰った翠色。綺麗だがその奥には弱々しい悲しみを帯びている。 不意に彼がぎこちなく笑んだ。突然のそれに興を突かれ漠然とし反撃に乗り出すことや、一歩後ろに下がることも忘れてなぜか同じ年頃の少年に見入った。 しかしそれも間もなく、突然、自然と半開きになっていた舌の上で味が弾けた。嗅いだ事のないにおいに苦々しい味。本能的に危険を感じ吐き出そうと慌てて口を覆っている少年の細い腕を振り払った。 その時しなるように視界を横切った太陽に焼けていない細く白い腕に無数の注射痕と拘束具で締め上げられたような痕が目にとまる。しかし、それを気にしている余裕もなく、唾とともに口腔に広がる味を吐き捨てようと我武者羅に痰を吐きだした。 その味をどうにかしたくて食いものは無いかと脳の片隅で思う。気づくと空腹を自覚できるようになっていた。よくよく考えると、眼球の奥の激痛も、全身を襲っていたボロ雑巾を絞り上げるような痛みも奇麗に消えていた。 一体どういうことだろうか。不可思議な現象に己の身のことなのにっと困惑する。 あの少年が何かしたのではないだろうか、そう思い至って勢いよく顔を上げる。小さな体は此方に背を向けて、彼がやってきた研究所へ続く扉へと去っていく最中であった。 「ま、待てッ」 気づけば叫んでいた。気づけば細い背中に手を伸ばしていた。 血で汚れた手は少年に届かない。我武者羅に飛ばした音はたぶん届いた。 だけど、少年は足を止めてはくれなかった。 |