毒の味、夢の味、絶望の味、
希望の味、命の味
腕の柔らかな肌を突きぬいて体内へと繋がる細いとは言い難い針。視界の端まで伸びて途切れる無数のチューブ。無色透明のそれの中を行き交う赤黒い液体。 清潔すぎる白の箱のような部屋の四方に設置されたスピーカーから一面の壁をなしているショーウィンドウ越しに此方を観察する無数の人間の一人がマイク越しに言葉を伝える。 本日最後の投与、だそうだ。まだあるのか、と内心げっそりとしながら既に今日だけで数十を超える毒を新たに投与され、その度にこの世に存在していない抗体を作り上げた自身の体は既に体力の限界に到達していた。 思考を黒く塗りつぶすように、腕に繋がる針から新たな毒が体内へと侵入し暴れ始める。激痛と発熱、その他諸々の症状が全身を駆け巡り侵し蝕んでいく。しかしそれも一瞬のような時間だけで、すぐに己の体はその毒に対する抗体を作り上げた。 苦しかった呼吸は通常の物へと戻り、溜息を吐きながら額に脂汗が浮かんでいるのを感じつつ静かに瞼を閉じた。 部屋の隅に設置してあるスピーカーから科学者達の声が流れ込んでくる。労いの言葉だったか賞賛の言葉だったか、それらには総じて感情は籠っておらず僕はいつからかそれらの言葉に興味など持たぬようになった。 真っ白く、幾何学的な臭いを漂わせるその部屋の片隅にひとつ大きな穴があく。そこから屋外に設置されているごみ箱ぐらいの大きさがある無人のロボットが電動音を響かせて此方へとやってきた。馴染みの顔にちらりと視線を向けてダラリと寝台に寝ころんだまま全身の力を抜いた。 ロボットは機械とは思えぬ動作で手際よく僕の腕に刺さっていた針やら、激痛に悶える時に身体が寝台から落ちないようにと固定している拘束具を解いていく。 毒を投与した後の僕は危険だ。 だからこうした僕に接するような作業は総じて生と死の概念を持たぬ機械に任されていた。別にそれを悲しくも悔しくも思わなくなったのは何時からだろうか。 (きっと、この間暴走した時から…いやもっと前、かな) 心中で一人、呟いて自嘲するように顔を歪める。 少し前まではこうした作業は研究所の下の人間がやっていた。彼らは総じて研究心の塊のような輩ばかりで僕を人間扱いはしなかったが、それでも毒を制御できず暴走させて巻き込んでしまったことは申し訳ないと思ったし、辛く悔しかった。 それ以来、施設の高性能なロボとばかり顔を合わせる毎日だ。今日もこの後、彼の先導に従って隔離された僕専用の檻へと連れていかれて食事と睡眠をとらされ、また決まった時間にこの部屋に連れてこられるだろう。 繰り返しの、なんの変哲もない毎日。 僕は生きているのだろうか。 そもそも、僕は生きていていいのだろうか? いつもと決まった道を歩いている時だった。前を歩くロボットが静かにその動きを止めくるりと此方を振り返る。 先導する彼が止まったのだから自然と僕も足を止め、此方を見ているロボへ視線を向けた。 今までこんなこと一度も起こりはしなかった。少々の不安と好奇心を胸に潜ませながら、目の前のロボットが次に何をするのかと早まる鼓動を聞きながら観察した。 すると、目の前のロボから音声が発せられる。告げられた名前は僕を研究対象としている部署の偉い人―だったはず。 驚いて、思わず一歩後ろに仰け反ってじっと目の前の機械を見返す。ロボは此方の反応などお構いなしに一方的に捲し立てるように喋り出した。 『現在施設の一部でグルメコロシアムで毒に侵されたチェインマニアルが暴走している』 『別々の相手からそれぞれ毒を食らい三種類の毒が体内で反応を起こしあったようだ』 『従来の抗体では役に立たない、そこでお前の出番だココ』 『暴れているチェインマニアルの体内にある毒を分析し抗体を作り出せ』 通信機能も付いていたらしい。 顔も知らぬ相手から告げられる命令が目の前のロボットについている側面のスピーカーから垂れ流される。 「今、からですか」 『そうだ。今直ぐにだ。毒で自制を失い凶暴化しているチェインマニアルのせいで既に職員の数人が重軽傷だ』 それだけの被害が出ているのならば、そのまま毒で殺してしまえばいいのに。と思わないわけでもなかったが けれどそう言う自分だって、世界にとって多大な被害をもたらし多くの生物を死にやってきた。しかし、こうしてまだ生かされている。 『こんなことで奴を失うわけにもいかん。必ず、毒を無毒化しろ、いいな』 「…はい」 どうやらそのチェインマニアルは自分と同じくして貴重な存在らしい。 案内されたのはグルメコロシアムへと続く通路だった。事態はどうやら僕が思っている以上に深刻な様子で、先ほどから忙しく行きかう職員たちが僕になど目もくれずに横を通り過ぎていく。 怒声やら金切り声に続き怪我人がバタバタと運ばれて行く。獣が引き裂いたような抉られた傷跡と血のにおいに思わず顔を顰めて道案内を続けるロボの後を早い歩調で続いた。 頑丈そうな扉の前に来ると、騒動の中でも動揺もせず落ち着いて直立不動の警備員が怪訝そうな眼でじろりと僕たちを睨みつけてきた。 そんな男の前でぴたりと動きを止めたロボがチカチカと人間にしてみれば目にあたる個所を光らせて、安全な場所に居る人間との交線具合を示している。 無機質なロボから鮮明な肉声が再生され、ロボから伝えられる上司の言葉に無表情だった警備員の男が目を見開いて僕へと視線を向ける。 好奇混じりの、しかし畏怖の色が強く乗せられた視線だ。 それを無視して僕は考える。ここに来る前の間に、毒の元である猛獣達の特徴も、毒の性質もある程度理解した。あとはこれらの組み合わせで出来上がるブレンドの毒に大凡の当たりをつけてきたわけだが、実際に体内で生成された毒の味を口にして見なければ、明確な抗体は作れない。 そこまで考えたところで目の前のロボが準備はいいか?と振り返ることもせずに口にしたので、短く了承の意を言葉にすると警備の男が壁のパネルを操作し、空間を仕切っていた扉がシュっと音を鳴らして開いた。 視界のなかに奥行きが現れぶわりと肌を舐めるのは血肉の臭いと、息苦しいまでの殺気。 グルメコロシアムへと続く広い通路には所せましに積まれた檻の中には猛獣達が血の気の多そうな面持ちで納まっている。 その中でも一際目立つ、強すぎる殺気。これでは弱い者など呼吸することすら許されないのではないだろうか。恐らくその殺気の主が毒に侵された手負いの猛獣なのだろう。 一歩踏み出し、色の違う通路に足を踏み入れる。 扉をくぐる時に、警備員の恐怖している眼差しが僕に突き刺さるが気にしないように、そう言い聞かせて男の視線から逃げるように目の前のチェインマニアルへと意識を集中する。 しかし、手負いのチェインマニアルの姿を目に写し僕は驚愕する。 獰猛で危険なチェインマニアルは僕と同じぐらいの年頃の少年だったのだ。 |