毒の味、夢の味、絶望の味、
希望の味、命の味
あの日、毒に死にかけた出来事など鳴りやまない腹の音で塗りつぶされはじめる程になった頃合い、ようやくトリコは檻の中から庭へと行動範囲を広げることが可能となった。 檻と同じく囲まれ本物の自由などない庭だったが、今まで繋がれていた狭い檻に比べてみれば庭には膨大な食料が溢れそれを自分の足を、手を使い捕食することも可能となり、決まった量だけの食事を与えられる窮屈な部屋に比べてトリコはささやかながらそこに自由を感じていた。 頭上は灰色に覆われ、纏わりつく空気は湿り気を含み陰鬱な表情をしていた。 しかし、トリコにそれは関係など無く彼はいつものようにIGOの施設から飛び出し不機嫌顔の世界へ飛び出していった。 勿論食事をするためである。 長く組織に軟禁されていたトリコは力を弄ばせていた。それは時にグルメコロシアムという場において発散されていたが、トリコにとってそこは嫌悪の対象でしか無く、弱者は捕食者である強者によって、敗北の末に強者の血肉となる―そうした食物連鎖の次元から外れ、人の強欲のためだけに腐敗した戦いの場で力を使うことをトリコは嫌っていた。 だからこそ、こうして庭に出て自身の力を存分に振い食べたい物を手に入れる今の現状がトリコにとっては何よりの幸せであった。 そんな一時の幸せの中を駆けるトリコの鼻が不穏な臭いを嗅ぎ取った。その臭いは、嬉々としていたトリコの弾んだ心を萎ませ、トリコの眉間に皺を刻みつける。 「変だ…この臭い。一体――」 トリコの嗅覚は異常とも言えるほどの能力を持ちえていた。そんな彼の鼻が感じ取った異変。トリコの双眸が見据える先の先から漂ってくる異臭。チカチカと頭の中で嫌な予感が瞬いて警告を告げる。 不思議なことにトリコはその感覚を以前にも味わったことがあると気がついた。―だが、どこでそれを感じたのか肝心なことは思い出せない。 「考えるのは柄じゃねぇな…!」 トリコはへっと言葉を吐き出し、鼻先を手の甲で拭うとそのままタンっと地面を蹴り駆けだす。 彼は四肢で大地を掛ける動物よりも速く、風さえも寄せ付けずに残像すら残さずに駆け抜けていく。トリコが目指す先は異臭の根源。小さくとも興味を抱いてしまった、まだ若い彼はその先に待ち構える漠然とした危機など臆することなく向かっていった。そこに何があるのかトリコは知らず、そしてそれを思案し予測することもしなかった。――その結果、彼は眼前に広がる惨憺たる光景に言葉を失い立ち尽くすこととなる。 「んだよ、これは」 カラリと乾いた喉から絞り出された声音が、柄でもなく震えていることに気づきトリコは咄嗟に口を噤み、唇をきゅっと結んだまま目の前の惨状に呆然と立ち尽くしていた。 トリコが駆け付けた施設の建物から遠く離れた最果ての地は苦悶と死で溢れかえっていた。そこに生え茂っていたはずの植物は見るも無残に枯れ果て、そこに巣食っていた生物は極小のものから怪物と呼ばれるほどの巨大なものたちまで、総じて見るも無残な姿で辺りに転がっている。 トリコは咄嗟に口元を覆い呼吸を止めた。それは胸の煮えかえるような死臭のせいではなく、その臭いを作り出している根源を吸い込まないようにするためである。 彼の優れた嗅覚は大気中に浮遊する微量の毒素を嗅ぎ分けていた。既に毒素は薄く効力も微弱と判断していたが、それが目の前の惨状を作り出したとではないかと予想すると安易にその毒素を体内に吸収してしまうことは拙い、と普段頭を使わぬトリコでさえも容易に察せられた。 実はこの土地にトリコが足を踏み入れたのは今日が初めてであった。この地区は獰猛な怪物が多く、まだトリコでは敵わない怪物が生息している。己の力量を踏まえここには立ち寄らなかったトリコだが、彼を捕食する立場の怪物たちが総じて死に絶えた今、怪物に命を奪われる危険は無い。 ただし、この地獄を作り出した相手以外の化け物は例外である―― 「なんだ、まだ生きてるものが居たのか……」 彼はトリコの気配に気がつくと、そう言って落としていた視線を上げて振り返った。そうすることでトリコと彼は正面から視線を混じらせて見つめ合うこととなる。 累々と横たわる屍の中でひとり立ち尽くしていた少年は地獄へとわざわざ踏み込んできたトリコの姿を見据えると、一瞬僅かに目を見開いて瞬いたがすぐにその顔から表情は抜け落ち、淡々とした様子で唖然としているトリコを観察するように、冷めた双眸で見つめていた。 トリコは、そんな少年の様子よりも辺りの惨状に目を奪われ、そして次第に心の内に憤怒の感情を燃やし始めていた。 隠すつもりもない怒り狂った殺気に、その矛先を向けられている少年本人が気がつかない訳もなく、大気をピリピリと焦がすようなそれを一身に浴びながら動じる気配もない少年は静かにトリコを見返していた。 「お前は何を怒っているんだ…?ボクがこの辺りを地獄に変えたことかい」 少年の問いかけは酷くあっさりとした響きで毒の泥濘へと落ちてゆき、トリコの眼には殺意が濃く揺らめいた。 トリコの目が爛々と、辺りに散らばる死体を映しながらことの元凶である少年を射殺さんばかりの面持ちで睨みつけるが、少年は顔色ひとつ変えない。トリコにとってそれは屈辱的なことだった。しかし、目の前の同じ年頃の少年が辺りの惨状の原因であることは、彼から流れてくる臭いでトリコは理解していた。だからこそ、気に食わないからと言って急に殴りかかるようなことはせず静かに気を窺い、相手の動向に注意を向けていた。 「喰わないのか、そいつら。お前が殺したんだろ」 少年は、トリコの怒りの意味でも考えるかのように数秒間をおいて、閉じていた唇を開くと、トリコとは打って変わって平坦な声音になんの感情も載せずにあっさりと言い切った。 「食べない。ボクの毒が入っているから」 一切の悪びれも、後悔も、懺悔もない。 ただ、其処にあるのは現実だけ―とでも言いたげな、全く感情を浮かべない表情で佇んでいる少年にトリコは喉に呼気を詰まらせ、腹のうちで膨れて行く不快感に反吐を吐きそうになった。 |
090613