「俺は雨の匂いが好きだな」

 男はそう言った。笑っていたけれど、心は笑っていないと知っていた。彼の周りは常に雨が降っている。無色透明の滴を数え切れないほど侍らして、男は自分の周りに壁を作っていた。
 匂いなど無いのに、色など無いのに、その壁は時折血生臭く赤く染まり、男は笑うのを止めて両手を広げながら空を仰いだ。

「においなんて、しないよ」

 嘘をついた。その雨は死臭がとても香ったけれど気づかないふりをして男に言った。
 男は笑った。僕の嘘なんてお見通しだと言わんばかりに。
 腹が立ったので、ぼうっと雨の中突っ立て居る男の顎をトンファーで殴った。男はその程度の攻撃をかわすことも止めることも出来るのに甘んじて痛みを受け入れた。
 ガツン、と音が鳴って手の中に確かな感触が響く。

「いってぇ」

 男は笑っていた。全然痛そうじゃない、転がるような無邪気な笑みを浮かべて顎を押さえていた。

「実は雲雀。俺のこと嫌いだろ?」

 降り注ぐ雨を見上げて目蓋を閉じるその姿に見入った。別に美しいとか綺麗とか思ったわけじゃないけれど、確かにそこには心惹かれるものがあって、だけど僕にはそれが何かわらかない。
 濡れながら男は薄く唇を開き、雨を食べた。彼の喰われた雨は小さなボックスへと姿を変えてコロリと彼の足元に転がった。彼はそれを拾い上げることなく、目蓋を閉じたまま空を見上げていた。

「僕が嫌いなのは」

 一歩ずつ近づく。先程まで降り続いていた雨が作り出した水溜りが否応無く己の足音をかきたてた。
 近づいて見えた物がある。濡れる彼の肌の色だとか、滴を垂らす黒の髪の先、未だ赤の滴る日本刀の艶やかさなど。見えなくなったものもあるけれど。

「鬱陶しい雨だよ」

 言葉が落ちていく、彼の目蓋の先に溜まっていた滴と一緒にゆっくりと、震え、地面へ。
 彼が目蓋を開いた。いつまでも変わらないであろう漆黒が宿る瞳に太陽の光が映った。そしてそのまま此方に向けられた黒の視線。僕は何も言わずにそれを受け止める。

「雲雀は雨が嫌いなのな」

 そう言って、山本武は再び笑った。
 雨に濡れた、笑みだった。





雨のニヲイに、微笑を。


080423