それはいつのことだったか
五月雨の覆う昼時か、血の沁みた夕暮れ時か、霧の濃い早朝だったか
ともあれ、それは人の命が細い線の上で揺らめいている時だった。
それは、ささやかな気まぐれだった。視界を多い尽くす敵の数に比例して自身に重く圧し掛かる殺気を甘ったるしく享受していた時、不意に隣に居る彼へ目を向け、同じ組の名を被る雨の男を見た。
普段はそのようなことはしない。理由は至極簡単で明快。僕は彼に興味なんて無い。あるのは己の道を塞ぐ者達を如何にして噛み殺すかである。
神様の気まぐれとも言える、一瞬の己の意識が彼に向いた瞬間。彼は僕の視界の中へと入ってきた。そこで僕は一瞬呼吸の仕方を忘れる。
山本武は笑っていた。
その笑みを僕は知っていた。獣が餓え獲物である被捕捉者を目の前にしたときのもの、それは僕が持つ笑みとなんら変わりないものだった。
違和感が心の中にはこびるが、どこかしっくりもした。
日常、彼が持つ笑みはそれとはまるで違う、簡単に言えば間逆のものと言えるであろう。しかし、今彼が持つ笑みは、何故だか彼の古い友人かのように、彼の顔に馴染み様になっている。
それが酷く、疑問で不快だった。
彼は普段は、殺したくなるような種の笑みを飼っているのに、何故そのような人間が自分と同じものを持っているのか、腹ただしくなり、僕は手の中の凶器は矛先を変えようと、手の中のトンファーを握りなおす。
それはつまり、僕の殺気が彼に向けられたということだ。
その瞬間、先程までとは比べ物にならないほどの重圧が身体を蝕む。息が喉を競り上がることなく、まるで上から押し潰されるようにして呼吸は行き場を失い、全身から冷ややかな汗が吹き出た。
何が起きたのかと、理解する前にそれは一瞬で消え去る。目の前で山本武が焦った顔をして「悪い、間違えた」と頭を掻きながら笑った。それは僕が浮かべる笑みでは無く、普段の彼の笑みそのものだった。
その瞬間悟った。あれは、殺気だ。剣豪として鋭く強かに磨かれた山本武の人を殺す決意。それに僕は一瞬とはいえ飲み込まれた。
これほど屈辱的なことはあるだろうか。
何十人もの敵を放り出し、雨の守護者の首を狩りに踏み出た。彼は驚きの声を上げながら「ごめんって!敵かと思ったんだ、まさか雲雀だったなんて」と言葉を吐きながら此方の一撃一撃をスレスレで避けていく。
大変気に入らない。
「問答無用で殺してあげる」
「いやいや、敵なら目の前に仰山敵居るから!な?そっちを噛み殺してくれよ」
「うるさい」
トンファーの矛先にあるのは既に、人殺しではない山本武だ。陽だまりでぬくぬくとまどろんで、腐っていくだけの弱い人間だ。
なのに、そんな彼があんなものを持っているなんて。
気づけば放り出していた敵が僕達の戦闘に横槍を入れながら僕達を殺そうと躍起になっていた。そんな奴らは眼中には居れず、如何にこの雨の守護者を本気にさせて、どうやって殺し合いを興じようか。
僕の思考は、彼の殺気を浴びた瞬間からそのことだけを追い求めカラカラと動き出した。
ひとでなしの笑み
080424